丼季報亭「8万時間の休息」

旅の記録や季節の便りそれに日々の思いを軽いトーンで綴ってみました。

392.1500年前に渡来

2010-08-21 00:13:37 | 閑話


  お盆を過ぎて朝晩は少しだけしのぎやすくなった感じですね。

  さて 無雲さんからの宿題である暦の話 その3 最終回です。

遠い昔、古代中国では月の満ち欠けに基ずいた「大陰暦:旧暦」が使われていました。
しかしこの大陰暦は太陽の位置とは無関係であった為、実際の季節とはズレがありました。
  この暦では農業を生活の糧にする民百姓にとって農作物の植え付け時期を決定する上で、大変不便な暦でした。

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そこで考え出されたのが、太陽暦の日付で設定された「二十四節気」です。

  

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太陽が地球の周りを一回りする見た目の軌道(約365日:360度)を「黄道:コウドウ」といい これを二十四等分すると15日づつ角度なら15度づつで1年をほぼ均等に分けられます。

二十四節気はこの二十四の区切り地点に農作業や生活の目安になる名称をつけたものです。

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  この二十四節気の考え方をベースにした太陰太陽暦が、六世紀ごろの日本に伝わってきます。
 千五百年以上前に 朝鮮半島経由で元嘉暦(げんかれき)と、遣唐使が持ち帰った儀鳳暦です。

  元嘉暦とは中国・南北朝時代の宋の天文学者・何承天が編纂した太陰太陽暦の暦法です。中国では南朝の宋・斉・梁の諸王朝で、元嘉22年(445年)から天監8年(509年)までの65年間用いられていました。


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  19年間に7度 閏月を置き、 1太陽年を365+(75÷304)日(≒365.2467日)、1朔望月を29+(399÷752)日(≒29.530585日)としました。


 何承天は、景初暦の冬至が後漢四分暦の観測値に従っていたため、実際の冬至より3日もずれていることを指摘し、天体観測のやり直しを行っています。

 また朔日の決定に月の遅速を考慮した定朔法を用いようとしたのですが反対が多く採用は出来ませんでした。

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 元嘉暦は朝鮮半島の百済を通じて日本に 6世紀頃に伝えられました。

 当初は百済から渡来した暦博士が暦を編纂していたか、百済の暦をそのまま使用していたと考えられます。

 推古天皇10年(602年)に百済から学僧・観勒が暦本などを携えて来日し、帰化人系の子弟らにこれらを学習させたのです。

 平安時代の書物『政事要略』には、推古天皇十二年正月朔日に初めて日本人の手によって作られた暦の頒布を行ったとの記述があり、これは元嘉暦によるものであったと考えられています。


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 持統天皇6年(692年)から(持統天皇4年(690年)からとの説もある)、中国から輸入した新しい暦である儀鳳暦を試用するため元嘉暦との並用を始め、5年後の文武天皇元年(697年)からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用することとなりました。

 日本の太陰太陽暦(旧暦)は697年(文武天皇元年)に儀鳳暦(唐の麟徳暦)への最初の改暦が行われました。


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 続いて764年(天平宝字8年)には大衍暦が導入されました。

 862年(貞観4年)に宣明暦に改暦されて以後、遣唐使の廃止による日中の公的交流の断絶、暦道の家学化・保守化によって以後改暦は行われなくなっていきました。
 
 宣明暦 のあとは貞享暦, 宝暦暦,寛政暦 ,天保暦,と時代毎に国産の和暦が続きました。

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 1684年(貞享元年)渋川春海が地理的問題などから授時暦の中国暦の直接的移入は不可であると唱えてこれに独自の修正を加えた日本最初の国産の和暦・貞享暦を作成しました。

 勅許を得た貞享暦は翌1685年(貞享2年)に施行されたましたが、 これらは全て太陰太陽暦です。


 ◆最後の和暦 天保暦

 天保暦(てんぽうれき)とは、かつて日本において使用された太陰太陽暦の暦法である和暦です。正式には天保壬寅元暦(てんぽうじんいんげんれき)と呼びます。これは過去に中国で用いられた暦法にも同名の天保暦が存在するためです。

 日本の旧暦は、広義にはグレゴリオ暦導入以前の日本の暦法をさしますが、狭義にはこの天保暦をさします。

  使用期間 : 天保15年1月1日(1844年2月18日)に寛政暦から改暦され、明治5年12月2日(1872年12月31日)まで約29年間使用されました。

  渋川景佑らが西洋天文学の成果を取り入れて完成させた暦で、実施された太陰太陽暦としてはそれまでで最も精密なものであるとして評価されています。

 平山清次の計算によれば、平均太陽年365.24219日・平均朔望月29.530589日に対して、天保暦の太陽年は365.24223日・朔望月29.530588日であり、グレゴリオ暦の太陽年365.2425日よりも誤差が小さいとされています(『暦法及時法』)。

 寛政暦までは、二十四節気を1年間を等分(時間分割)して計算する「平気法」が使用されていました。天保暦では太陽の位置を計算し、天球上の太陽の軌道を24等分(空間分割)して二十四節気を求める「定気法」を採用しました。


 やがて明治6年(1873年)1月1日、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦されます。 これで暦の話も終了です。

 明治維新を機に改暦論が出されました。

 天保暦の精度そのものは既にヨーロッパのグレゴリオ暦の水準に匹敵していたのですが、明治政府は1872年12月9日(明治5年11月9日)に突如明治天皇の詔書と太政官布告339号を発し、明治5年12月3日をもって新暦(グレゴリオ暦)の明治6年1月1日とすることを宣言したのです。


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 当初無雲さんから要望があったときにはどこから手をつけてよいか迷ったものです。
 記事をまとめている過程でとても勉強になりました。 

今日もお立ち寄りいただいて有難うございます。

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他にもブログを投稿しています。
● Gooブログ「8万時間の休息」(2008年3月投稿開始) http://blog.goo.ne.jp/nickk
●旅のブログ-4Travel「Donkyさんの旅の記録」(2013年6月投稿開始) http://4travel.jp/traveler/donky2013/
お時間のある時にちょっとだけ覗いていただければ嬉しいです。

注)ブログ記事のうち暦の詳細についてはWikipedia から抜粋したものです。

 


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