新潟久紀ブログ版retrospective

柏崎こども時代41「修学旅行は会津(その1)」

●修学旅行は会津(その1)

 昭和半ばの柏崎市立比角小学校に通っていた頃において、最大のイベントであり小学生時代としてのハイライトといえば、6年生の春の宿泊を伴う修学旅行ということに違いないのだが、道中はもとより立ち寄り先の記憶が曖昧で、エピソードなどがなかなか明確に思い出せない。
 小学生くらいだと、特に私のようなぼんやりしていた児童だと、引率されるがままの先々に着いていくのが精一杯であり、また、特に男子は道中に友達とふざけあったりするのが楽しいばかりで、せっかくの名所などもじっくり目に焼き付けたりできるものではなかったのだと思う。
 そんなわけで、今から思えば見ごたえのある地域資源が豊富で新潟県民としては羨ましさも感じるほどの、福島県の会津若松を中心としたエリアへの修学旅行を振り返るのは心もとない限りだ。
 それでも彼の地について考える時に常に頭に浮かんでくる事柄は、修学旅行の時期と重なるように関心を持った「白虎隊」の悲劇の物語だ。
 小学5年生くらいの頃になると、週刊少年漫画誌などに飽き足らず、活字の図書などにも手を出すようになった。その頃は江戸川乱歩の怪人二十面相の単行本などが校内の高学年にやたら流行っていて小学校の図書館では引っ張りだこで貸し出されていたのだが、主体性の乏しい私も、仲の良かった中でも優等生タイプの友達の影響で、それらを借りてみようかと行き慣れず敷居の高さを感じていた図書館に恐る恐る寄ってみたものだ。
 くだんの二十面相とか流行りのものには興味が深まらなかったのだが、書棚を眺める中で目が留まって手にしたのが「戊辰戦争」を子供向けに簡単に物語るハードカバーの単行本だった。
 もしかして、修学旅行で戊辰戦争の激戦地でもあった会津に行くのだからそれぞれなりに予習しておけとでも教諭から言われていたという経緯があったのかもしれないが、子供向けに装丁された表紙に描かれた少年剣士達のどこか憂いある姿に引かれて手にしたことには違いなかった。
 遠く京都守護職まで仰せつかって幕府に忠義を尽くした会津藩は薩長連合からなる新政府軍に徹底的に攻撃され、恭順の申し出さえも受け入れてもらえず、その壊滅の終盤には会津城下の女子供まで犠牲になる中で、年端も行かない少年兵たちが、末路を案じて自刃したという「白虎隊」の実話は、戦後20年余り経て生まれて高度経済成長の少し浮かれた時勢の中で育った私にはとても衝撃的だった。
 小学高学年くらいというのは丁度死というものを意識してその不安に強く駆られる思いをする年頃ではないだろうか。その頃のテレビでの時代劇や大戦中を扱うドラマなどでは、まだ自決の潔さをどこか美しく表す向きが多かったが、さすがに自分と同じ年頃の子供が戦禍に巻き込まれ集団で刃を向けあって果てるという凄惨さには覚えたものだ。
 会津若松への修学旅行は、予め「白虎隊」の悲話が脳裏に刻み付けられた上で臨むものになったのだ。

(「柏崎こども時代41「修学旅行は会津(その1)」」終わり。仕事遍歴を少し離れた実家暮らしこども時代の思い出話「柏崎こども時代42「修学旅行は会津(その2)」」に続きます。)
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