今回は娘が2歳4ヶ月のときのお話です。
私は2歳の娘を育てる上で「誉める」ということを意識していました。
子どもを否定するよりも、いいところをみつけて誉めてあげましょう、
という育児論に共感していたからだと思います。
ある日、保育園にお迎えにいったときに先生にいわれました。
「花ちゃん、今日もおまるでおしっこできましたよ。
遊んでいる途中とかだと、おまるイヤ!っていうときもありますけど、
『おまるでおしっこしてお母さんに誉めてもらおっか』
というとぱっと顔が変わって、おまるいく~って。
お母さんに誉めてもらうのが嬉しいんですね~」
先生としては、微笑ましい日常の一コマを報告して下さっただけだと思うのです。
私自身、できたことはちゃんと誉めてあげなければ!と、
連絡ノートを毎日チェックして
「今日はおまるでできたんだね~。えらいね~。がんばったね~」
と声をかけてあげるように心がけていたのですが、
そのときは何かが引っかかってしまったのです。
娘が私の顔色を窺っているように感じたからでしょうか。
その翌朝、娘が自分でズボンをはこうと頑張っていましたが
何度やってもうまくいきません。
そのうちに
「しっぱいした~~~。できないの~~~。ズボンはけない~~~」
と癇癪をおこしてしまいました。
そこで、ふと
「失敗してもいいんだよ」
といってしまいました。
すると、泣いていた娘が泣きやみ、びっくりしたように顔をあげました
その顔をみて、私の思いはとまらなくなってしまいました。
「さっきから花が頑張っていたの、ちゃんとママみてたよ。
ママだってたくさん失敗するし、間違っちゃうときもあるよ。
失敗しない人なんていないよ。
失敗しても頑張ることが大事だよね。
ママみてるから、もう一回、頑張ってみよっか。」
そういうと、娘は
「うん!」
といって、もう一度ズボンにとりかかり、
見事1人ではくことができ、ふたりで喜びあいました。
『評価する』ことと『認める(承認する)』ことは違います。
私は、”誉める”ことを通じて、
いつの間にか『評価』していたのかもしれません。
だから、「失敗してもいいんだよ」といったとたん
娘は私にありのままの自分の姿を受け入れてもらえたと感じ、
『認められた』(承認された)と感じたのではないのかと思います。
娘の顔色がぱっと変わった瞬間、
娘と気持ちが通い合ったような気がしました
私は2歳の娘を育てる上で「誉める」ということを意識していました。
子どもを否定するよりも、いいところをみつけて誉めてあげましょう、
という育児論に共感していたからだと思います。
ある日、保育園にお迎えにいったときに先生にいわれました。
「花ちゃん、今日もおまるでおしっこできましたよ。
遊んでいる途中とかだと、おまるイヤ!っていうときもありますけど、
『おまるでおしっこしてお母さんに誉めてもらおっか』
というとぱっと顔が変わって、おまるいく~って。
お母さんに誉めてもらうのが嬉しいんですね~」
先生としては、微笑ましい日常の一コマを報告して下さっただけだと思うのです。
私自身、できたことはちゃんと誉めてあげなければ!と、
連絡ノートを毎日チェックして
「今日はおまるでできたんだね~。えらいね~。がんばったね~」
と声をかけてあげるように心がけていたのですが、
そのときは何かが引っかかってしまったのです。
娘が私の顔色を窺っているように感じたからでしょうか。
その翌朝、娘が自分でズボンをはこうと頑張っていましたが
何度やってもうまくいきません。
そのうちに
「しっぱいした~~~。できないの~~~。ズボンはけない~~~」
と癇癪をおこしてしまいました。
そこで、ふと
「失敗してもいいんだよ」
といってしまいました。
すると、泣いていた娘が泣きやみ、びっくりしたように顔をあげました
その顔をみて、私の思いはとまらなくなってしまいました。
「さっきから花が頑張っていたの、ちゃんとママみてたよ。
ママだってたくさん失敗するし、間違っちゃうときもあるよ。
失敗しない人なんていないよ。
失敗しても頑張ることが大事だよね。
ママみてるから、もう一回、頑張ってみよっか。」
そういうと、娘は
「うん!」
といって、もう一度ズボンにとりかかり、
見事1人ではくことができ、ふたりで喜びあいました。
『評価する』ことと『認める(承認する)』ことは違います。
私は、”誉める”ことを通じて、
いつの間にか『評価』していたのかもしれません。
だから、「失敗してもいいんだよ」といったとたん
娘は私にありのままの自分の姿を受け入れてもらえたと感じ、
『認められた』(承認された)と感じたのではないのかと思います。
娘の顔色がぱっと変わった瞬間、
娘と気持ちが通い合ったような気がしました