皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

帝王学としての歴史教育は不要なのか

2024-09-26 22:43:32 | 皇室の話(3)
妙な記事が続いている。

令和6年9月17日11:30、歴史人より配信の「なぜ、天皇は「生物学」を研究するのか? 「歴史を学びすぎないように」と誘導される!? 皇族の教育方針の歴史」と題する記事がある。

この記事は、以下のような書き出しで始まっている。
-----引用開始-----
今年、悠仁さまが四人の研究者と共に「皇居のトンボ相」の研究成果を発表された。上皇(平成の天皇)や昭和天皇も生物学の研究をされていたが、なぜ「生物学」なのだろうか? 皇室の教育方針の歴史を振り返ってみたい。
-----引用終了-----

この後に御学問所の話があり、それに続けて以下の記載がある。
-----引用開始-----
■「歴史を学びすぎると危険」と、生物学に方向転換

 少年時代の昭和天皇がもっとも好んだ科目は「歴史」の授業でした。しかし、「歴史を深く学びすぎると特定のイデオロギーにかぶれてしまう」ということが当時、まだ存命だった「最後の元勲」西園寺公望に危険視されたので、歴史と同じくらいに興味が深かった生物学に関心が向かうようになったそうです。

 昭和天皇ご自身が、1976年(昭和51年)11月の記者会見で「歴史を学ぶ途中で生物学に興味を持つようになりました」とおっしゃっていますが、そうなるように周囲が天皇を指導したことも「帝王学」の一貫だったといえるかもしれません。
-----引用終了-----

帝王学として、歴史よりも生物学の方がふさわしいと言っているかのようである。
如何にも、トンボで話題の赤坂派にとって都合のよさそうな主張である。

しかし、この記事の書き手は、現在の天皇陛下は歴史をずっと研究されておられることを忘れているのだろうか。
悠仁親王殿下を持ち上げる反面、天皇陛下を貶めるような効果を生ずるのではないか。

そこで軌道修正を図るため・・・、であるのかどうかは分からないが、この記事を書いた堀江宏樹氏は、9月24日にも記事を書いている。

令和6年9月24日11:30、歴史人より配信の「時代とともに変わる「皇太子の教育」 公務が忙しい中で学ばれる内容とは? イギリス国王がもっとも重視するのは「憲法」」と題する記事である。

この中に以下の記載がある。
-----引用開始-----
 現在の天皇陛下(今上陛下)こと徳仁親王への「帝王教育」は、学習院高等科時代には始まっていたそうです。徳仁親王は少年時代から歴史に強い興味をお示しになられ、イギリスのオックスフォード大・マーティンカレッジの大学院にも留学し、歴史の中のテムズ川の水運などを研究なさいました。

 少年時代の昭和天皇も、もっとも熱心に取り組んだ科目は歴史だったというのに、思考が偏ることを理由に周囲から危険視され、最終的に生物学を専攻なさったという逸話があります。しかし、その孫に当たられる今上陛下は高校生のころから、学習院大学名誉教授だった児玉幸多から歴代天皇についての個人授業を受けられています。

 天皇家には歴代天皇の崩御した日に、その方の事績を偲ぶ「式年祭」という行事の伝統があるそうで、その儀式の前日に講師を私的に招き、講義を受けていたそうです。今上陛下が高校生のころに受けたという歴史の個人授業も、そうした伝統の一部だったといえるかもしれません。また、毎週一回のペースで、父宮(現在の上皇さま)と共に昭和天皇を訪問し、お話をうかがうこともあったとか。
-----引用終了-----

「少年時代の昭和天皇も、もっとも熱心に取り組んだ科目は歴史だったというのに、思考が偏ることを理由に周囲から危険視され、最終的に生物学を専攻なさったという逸話があります。」というのは9月17日の記事と同様であるが、天皇陛下(徳仁親王)が少年時代から歴史を研究されていたことについて先回りして言及しつつ、歴代天皇についての個人授業、式年祭前の講義といったことを紹介し、歴史を学ぶことも意義や必然性もあるという風に、取り繕いをしているような内容になっている。

ただ、この取り繕いは的を射ているとは思えない。
どう考えても、歴史を知るということは、帝王学の重要な本質の一つであろう。
自分の国の歴史を知ってこそ統治を行うことができ、また、世界の国々の歴史を知ってこそ、国際関係、特に厳しい戦争の時代であればなおさら、十分な対応ができることとなるのではないか。
・・・などということは、誰にでも分かりそうな当たり前の話である。

ただ、9月17日の記事にある、「「歴史を深く学びすぎると特定のイデオロギーにかぶれてしまう」ということが当時、まだ存命だった「最後の元勲」西園寺公望に危険視された」という箇所については、筆者が具体的な事実関係は知らないのであるが、西園寺公望であれば、そういうことを言いそうな感じはする。

歴史を学ぶ上で、歴史観という領域になると、イデオロギー的にもなるので、注意が必要であろうとは思う。
ただ、それは歴史観、イデオロギーが、偏りなく歴史を知る上での妨げになり得るという点で問題になるということであって、歴史を知らなくていいという話ではないはずだ。
知らなければ、むしろその方が騙されやすいことともなるであろう。

また、生物学というのは、どう考えても趣味の一つであるはずで、それを帝王学としての歴史を置き換えるというのは、無理のある話なのではないか。

9月17日の記事で言及されている「記者会見」につき、高橋紘、鈴木邦彦著「陛下、お尋ね申し上げます」より、前後を含めて広めに引用すると以下のとおりである。
-----引用開始(下線は筆者)-----
記者 西園寺公、鈴木貫太郎氏の思い出を、うかがえる範囲でお聞かせください。
天皇 西園寺公に、私が感心していることは、八十いくつになってもフランスのマルクス主義の本をひもといて、八冊あるんですが、さすがの西園寺公も一冊しか読み得なかった。(それにしても)あの年になって、よくフランス語の本をこなしたものだと思っています。本当に勉強家であったと感心しています。
 鈴木貫太郎に対しては、いろいろ困難な場面に会っているのに、常に毅然とした態度に感心している。
記者 陛下は、お若いころ生物学より歴史の方がお好きだったと聞いております。
天皇 そのことについてはですね、私は歴史を学ぶ途中で生物学に興味を持つようになった学問的なものではないが、初等科のころ、沼津や葉山で貝を集めることを楽しんだ
 学校に入ってから松村松年の立派な昆虫図鑑の本をひもとき、それで昆虫の名前を決めたこともある。幸い、私の侍女と松年は懇意であった。侍女は足立タカ、のちの鈴木貫太郎夫人ですが、少しわからないと松年に昆虫の名前を調べてもらった。
 そういう関係で、生物学の方は小さいときから「三つ子の魂百まで」で、趣味はどうしても生物の方だった
 歴史に私が興味を持っていたのは、御学問所の時代であった。主として箕作博士の本で、一番よく読んだのはテーベの勃興から、ヨーロッパの中世時代にわたる、英仏百年戦争の興亡史であった。
 箕作の本に興味を持ったのは、第一次世界大戦の戦争史で、そういう戦争や政治史に関係したものに、興味があった。歴史の基礎はできていた。深くやるのは、そういう方面が好きだったからだ
 いろんな人から利用されるおそれもあったし、健康の方からいっても、坐禅的なもの(座学ということか)だったから、生物学の方をやるようになった
-----引用終了-----

まず、西園寺公望のエピソードとして、マルクス主義の本のことを紹介していることからすれば、西園寺公望にしても、昭和天皇からイデオロギー的なものを遮断し続けていたわけでないことを明らかである(敢えて書くのもバカバカしいが)。

また、この時の昭和天皇の発言で、確かに「私は歴史を学ぶ途中で生物学に興味を持つようになった。」と述べている。
ただ、堀江氏は「そうなるように周囲が天皇を指導した」などと述べているが、昭和天皇は実に生涯、ずっと生物学の研究をコツコツと続けておられ、そういうのは他人から指導されてそうなったというようなものでは、あり得ないのではないか。
昭和天皇もこの時の会見で、「生物学の方は小さいときから「三つ子の魂百まで」で、趣味はどうしても生物の方だった。」と述べておられる。

生物学について、ご成長の過程における無難な分野として他人から提案・誘導されることがあったとしても、ご自身が本来的に興味を持つことのできる対象であったのだろう。
そして、それは「趣味」としてなのである。

歴史についても、帝王学として修めなかったというわけではなかったのではないか。
「歴史の基礎はできていた。深くやるのは、そういう方面が好きだったからだ」と述べておられ、「歴史の基礎はできていた」ということを前提にした上での話なのである。
要するにプラスαとして「深くやる」レベルでの歴史についてはやめることにして、趣味としての生物学に打ち込んだということであったのだろう。

なお、「いろんな人から利用されるおそれもあったし」というのは、歴史を学ぶことの危険、リスクの話のようではあるけれども、その前段を見れば「そういう戦争や政治史に関係したものに、興味があった。」とあるのであって、そういう方面であれば、確かに、昭和天皇がそれに打ち込めば、利用されるおそれはあるであろう。ただ、それは歴史を学ぶこと一般的な危険・リスクとは違うのではないか。

また、この会見では、昭和天皇は「歴史に私が興味を持っていたのは、御学問所の時代であった」と述べておられるが、その後の時代においても興味は持ち続けておられたようだ。

例えば、「陛下、お尋ね申し上げます」に収録されている昭和22年6月3日の会見では、以下のやり取りがある。
-----引用開始(下線は筆者。この時、昭和天皇は46歳。)-----
記者 陛下はどのような書籍をお読みになっていますか。
天皇 やはり生物学の書籍を最も多く読むが、歴史も興味が深く多く読んでいる。雑誌も月々のものを読むが、小説は見ない。
-----引用終了-----

そもそも、昭和天皇のような、歴史の中心におられるような方において、歴史に興味・関心を持たないようにするということは無理があるであろう。

ただ、歴史、とりわけ、戦争や政治史といった分野については、それを学べば、自らの過去の判断、言動を振り返らざるを得なくなり、本当にあれでよかったのだろうか、もっと別なやり方があったのではないか、といった思いに駆られることとなり、気持ちが休まることがないのではないか。

その点、生物学であれば、自らの地位、身分を忘れて打ち込むことができたであろう。
昭和天皇が生物学について「趣味」とおっしゃっていたのは、謙遜という面もあったと思うが、それだけでなく、自らの公的立場と離れたものであるということに積極的な意義を見出していたということも十分に考えられる。
すなわち、「帝王学」としてではなく、「帝王の趣味」としての意義である。

このように考えると、赤坂派の言動というのはかなり問題があるのではないか。
トンボについても、あくまで趣味ということであれば非常に意義はあるであろう。
しかし、趣味といった奥ゆかしい打ち出し方ではないようだ。
堀江氏の記事でも、「皇室の教育方針の歴史を振り返ってみたい。」といった書き出しであり、昭和天皇のエピソードまで持ち出して、トンボがまるで帝王学の一環のように扱っている。

それにしても、何でこんなレベルの記事がメディアで流通するのであろうか。
ほとんど誰にも読まれることのないこのブログで、いろいろ述べても仕方のないことかもしれないが、放置しておく気にはなれず、ついつい長々と書いてしまった。

こういった記事について、何をバカなことを言っているんだと、世間の人々が分かっているのなら心配はないのだが、どうなのだろう。

赤坂派にしても、こういう耳障りのいい記事を、まさか真に受けたりはしないと思うのだが、大丈夫なのだろうか。

今回の堀江氏の記事が、天皇陛下(徳仁親王)の帝王教育について、ディスり気味の要素があり(9月24日の記事を見れば、堀江氏にディスる意図があるとは思えないが、そういう風に利用される要素はある)、誤解を生じかねない言及の仕方をしているので、改めて確認してみたところ、相当に考え抜かれた高度な教育が早期からなされていたようである。

すぐに確認できる手がかりとしては、以下のものがある。

昭和44年3月14日 衆議院内閣員会における宇佐美毅宮内庁長官の答弁
(当時、徳仁親王殿下は9歳)
「浩宮さまもただいま学習院初等科の三年、今度四年におなりになる。いままでは低学年でいらっしゃいますので、基礎的に体力を整え、基本的な御人格というようなことの御勉強を主として、しかも普通の生徒と同じような学校の教育をお受けになっておりますが、なお殿下がみずから御自分のお小さいとき以来のことをお考えになりまして、特に日本の歴史――まだ三年でいらっしゃいますけれども、いまの皇太子殿下のお小さいときに非常にわかりやすい日本の歴史を御進講した三上次男という先生から日本の歴史をお聞きになりますし、また最近は宇野哲人先生から論語の素読をお受けになっておるようなわけで、まだ非常な低学年でいらっしゃいますから、基本的な御体力とそういったお小さいときからの人格の形成という問題に非常に留意をいたしていろいろ御勉強を願っているところでございます。」

昭和51年12月17日 皇太子殿下(当時)記者会見における発言(薗部英一著「新天皇家の自画像」より)
(当時、徳仁親王殿下は16歳)
-----引用開始-----
記者 浩宮様に教育顧問のような人を依頼する考えは。
皇太子 教育専門という人は必要ないが、これからは大学もあり、いろんな人の意見を聞くことが必要になるでしょう。今までも何人かの人とこの問題を論じてきました。私の場合、小泉先生、安倍院長、坪井博士と三人いました。小泉先生は常時「参与」という形で・・・・・。私はその影響を非常に受けました。私などは「参与」という形がほしいと思ったが、宮内庁は必ずしもそうでなくてもよいのではという考えでした。
記者 浩宮様にはどういう帝王学をお考えですか。
皇太子 帝王学という言葉が適切かどうかとも思いますが、たとえば日本の文化、歴史、とくに天皇に関する歴史は学校などで学べないものです。それをこちらでやっていくことはしたい。来年は(浩宮も)高校3年になり、時間的にはとりやすくなる。「象徴学」は一つの言葉で表せないと思います。いろんな材料を与えて、それをいかに咀嚼していくかが大事です。話をする人の、こうあってほしいという願いにも意味がある。受けとる側がうまく受け止め、自分のものにできればいいのですが。
-----引用終了-----

当時の皇太子殿下の記者会見での発言の例は、他にもたくさんあるのだが、様々な人と議論をした上で、いわば公的な大きな課題として、配慮を重ねて来られてきたということがよく分かる。

ところで、堀江氏の9月17日の記事では西園寺公望のことが持ち出されているわけだが、googleで「西園寺公望」「教育」「歴史」「危険」という文言で検索すると、検索結果の中に「第 4 章 皇太子明仁への教育方針」というものが出てくる。

これは瀬畑源氏の論文「象徴天皇制の形成過程 : 宮内庁とマスメディアの関係を中心に」の一部なのであるが、その中に以下の記載がある。
-----引用開始-----
昭和天皇は、皇太子を、しばらくは内親王と同じく、宮城内の呉竹寮で育てたかったようである1。しかし、元老西園寺公望は、すでに 1934 年 6 月 9 日に「今日、よく親が子供を自分の思ふ通りに、わけも判らずに教育しようと思ふことは非常な間違で、人おのおのの天性といふものがございますから、それをよく見極めて、その特長を伸ばして行くことにお気をつけにならなければなりません」2と釘を差し、親子別居を主張した。皇太后も皇太子は天皇個人の子供ではないとして反対した3。
-----引用終了-----

今の時代では、親子別居は到底無理な話ではあろうけれども、西園寺公の「今日、よく親が子供を自分の思ふ通りに、わけも判らずに教育しようと思ふことは非常な間違で」というところは非常に気になるところである。

悠仁親王殿下の教育につき、「わけも判らずに教育しよう」となっていなければよいのだが。

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