皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

皇后陛下と清子内親王殿下

2004-11-27 01:09:43 | 皇室の話
 今年は、皇后陛下の古希であった。
 皇后陛下のお誕生日の文書回答を読むと、ハッとさせられる表現がある。

 「東宮妃として,あの日,民間から私を受け入れた皇室と,その長い歴史に,傷をつけてはならな いという重い責任感とともに,あの同じ日に,私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大 勢の方々の期待を無にし,私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもま た,その後の歳月,私の中に,常にあったと思います。」
という箇所である。

 皇后陛下が民間から皇室に入られたことについては、改めて言うまでもないが、皇后陛下のお心の中には、皇室の歴史ということと、庶民の歴史ということとが、常にあったのだ、そのことを改めて示されると、皇后陛下という御存在について、いよいよ理解が深まった気持ちになる。
 皇后陛下におかれては、「皇后」であるということのみならず、庶民の歴史ということが常に心の中にあるからこそ、皇室の歴史について一生懸命理解しようとされ、また、そのことにより、実際に深く理解して意義を見いだされてきたのではないか。
 さらに、そのようにして理解された皇室の歴史について、民間にある者にも分かりやすく伝えようとされたのではないか、と思われるのである。実際に、皇后陛下におかれては、皇室の役割についてお話になることが、結構あるのである。
 そうなってくると、民間から皇室に入られたお方であるが故に、「皇后」として、独自の意義を有する御存在であったのではないか、と感じられてくる。

 このように考えると、清子内親王殿下のご結婚については、その対を成すものとして、とても感慨深いものがある。
 清子内親王殿下におかれても、皇室の歴史ということと、庶民の歴史ということを、常に心の中におかれて、過ごされることになるのではないか。

 なお、ここで、皇室の歴史ということと、庶民の歴史ということとがあると言っても、それは決して、どっちつかずということではなくして、皇后陛下におかれては、皇后というお立場に深い御自覚がおありなのであり、清子内親王殿下におかれても、庶民という立場に深い御自覚を持たれることになるのであろう。

 そして、そうなってくると、庶民という立場に立たれる清子内親王殿下について、安易に祭り上げたりすることは、慎むべきであるのだろう。また、そのご生活の様子について、注目するようなことも、避けなければならないだろう。
 なぜなら、一人の人間としての動静について、常に象徴的な意味のあるものとして注目されてしまうという宿命を負うことができるのは皇室のみだからである。
 そして、庶民というものは、皇室とは対照的に、集団的な存在である。
 メディアにおいては、清子内親王殿下お一人の、ないしは、黒田氏とのお二人の物語のように語られており、世間の認識もそのようなものであると考えられるが、清子内親王殿下が皇籍を離脱されるということは、清子内親王殿下を受け入れる庶民の側の物語でもあると言える。
 
 私たち庶民は、皇室に皇室としての在り方を求め続け、ご負担をおかけしてきた。そのことに見合うだけの責任感をもって、清子内親王殿下と黒田氏とのお二人のご生活を、尊重することができるだろうか。

 いよいよ、庶民としての誇りと責任とが、問われることになるのである。
 
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