エンスーMの「クルマとともに」

私が愛したクルマたちのことを忘れないために…

昭和54(1979)年式トヨタカリーナ1600GT4ドア(5MT) S57.5〜58.12

2022-03-27 16:08:00 | 日記
ようやく2台目の愛車の話です。
アコードの記事で触れたように、これには最初、父が乗っていました。

私の進学記念として、前車カリーナSTとの入れ替えでわが家へやって来ました。
「浪人しないで済んだら、クルマを買い替えるよ」と母が言ったのを真に受けて、高3の時だけは頑張りましたね。
おかけで現役で合格することができたので、春分の日にディーラーへ電話したら祝日出勤の営業さんがいて即日契約。営業さんは大喜びでした。

さすがに父は口出しせず、私の好みによるクルマ選びとなり、他の候補は日産スカイライン4ドア1800TI-ES。
地味な4ドアでバランスに優れ、かつ、遅くないクルマとなると、選択肢はそう多くはなかった。
トヨタの営業さんの愛車がウチのと同じ初代カリーナで、1600GTのハードトップだったのには不思議な縁を感じたものです。
メーカーオプションは、チルトステアリングとリミテッドスリップデフ。当時の北海道じゃ、エアコンなんて付ける人はほとんどいませんでした。
シルバーだと内装色は青なのが気に入らなかったけど、4ドアで羊の皮を被った犬を気取るなら白より良いかとシルバーに。アタックシルバーメタリックという外装色名は多分、生涯忘れないでしょう。

ひと月半ほど待って連休明けに納車されました。
免許は夏休みに取るつもりだったので、最初は助手席ばかり。
実物のGTは北海道ではほとんど見かけず、優越感に浸ることができるほど。STにGTのエンブレムを付けたエセGTが多かったです。小さな相違点があるので、見る人が見たら分かってしまうんですよ。
ウチのGTも何度かエンブレムを盗まれました。

ようやく免許を取得して若葉マークで乗るようになりましたが、助手席に父がいるとうるさくてうるさくてかなわない。全くと言って良いほど貸してくれない。そりゃもうアタマに来ました。
そして翌年、父は転勤となりカリーナを連れて行ってしまったんです。

でも、クルマを買う、あるいは買ってもらう友人たちもポツポツと現れ始めたので、私はKTCの高価な工具セットを買い揃えて、整備書を見ながら友人たちのクルマをいじって欲求不満を解消する日々でしたが、おかげで少々の整備は自分でできるように。

キャブバランサー、タイミングライトなども買い込み、休みの日には友人がウチに立ち寄るようになって、ご近所さんまでがクルマを診てほしいと言ってきたり、自分のクルマがないこと以外は楽しくもありました。
ただ、ソレックスやウェーバーのキャブは難しかった。満足いくような調整は一度もできませんでしたね。

そんなこんなでアコードの購入、そしてカリーナとの交換へと繋がっていくのですが、それまで最も乗り回していたのは友人の30系スプリンター1200STで、私の素人整備の教材として今でも記憶の中で輝いています。ツインキャブの連動、ポイントギャップと点火時期の調整、ハイテンションコード交換、モモのステアリングに交換、マーシャルのヘッドライトへの交換とリレー配線の製作などなど。

カリーナでうれしかったのは、EFIによる安定した始動とそこそこの高性能と低燃費。その頃、既に点火系はメーカー出荷時からフルトランジスタイグナイターが付いていてプラグ以外メンテナンスフリーでした。
レッドゾーン手前まで回しても2T-GEUは全く苦しい感じがせず、しかも4,000回転辺りからは心地良い音に変わります。わざと低いギアで引っ張り気味に走っては「これがツインカムサウンドかぁ」などと自己満足していました。ああ、恥ずかしい。

4輪ディスクブレーキも当時では珍しく、高速からの制動では、アコードとの違いに驚いたものでした。グーッと踏み込んでいった時にしっかりした手(足?)ごたえがあり、フロントが軽かったせいかノーズダイブも小さかった。

街なかでもリッター10キロを切ることはなく、長距離では15以上は確実に走ってくれて、また、峠でタコメーターの右半分を使えば地味なシルバーの4ドアセダンとは思えないツインカムサウンドを楽しむことができ、タイトコーナーでは限界の低い4リンクの足回りとLSDのおかげで、自然にスムーズなドリフトがいとも簡単にできました。

実はこのカリーナGT、父が乗っているうちから、父の帰省の都度、勝手にモディファイしていました。
アコードと交換した時には、ヘッドライトはボッシュの丸型4灯ローハイともH1という逸品、ホーンもボッシュの通称ベンツホーン、ハイテンションコードはFET極東が扱っていたアクセル、プラグはボッシュのプラチナプラグ、ショックアブソーバーはカヤバSTプレミアム、ホイールはクロモドラBタイプ6J-13、タイヤはオリジナルサイズ185/70HR13のままブリヂストンポテンザRE47という姿。
父は何も言わずに乗り続けていましたが、「オートバックスでオイル交換したら、店の人に素晴らしいGTですねとほめられた」そう。クルマを通じて父と心が通い合った本当に数少ない思い出です。

昭和58年4月に社会人になり、片道50キロというマイカー通勤の日々。カリーナには二度目の車検整備と同時に、心臓移植を含めた大手術を施すことになります。
88.5ミリのトモエのピストン、3Tのクランクと言えば分かっていただけますね?1,920ccにスープアップしました。外見ドノーマル、しかもEFIのままなのでカムシャフトは確かIN272°EX256°だったかな?もちろんポート研磨も抜かりなく。圧縮比は11.2?…ごめんなさい、忘れました。EFIだとアイドリングしなくなると脅かされたのでフライホイール軽量化は少しだけ。強化クラッチの銘柄は失念したけどTRDは重たいと言われて避けました。点火系はウルトラのCDIと専用コイルとコード。排気系はFGKのタコ足と50パイのマフラーのセット。EFIのままだからタコ足はO2センサー取付穴のあるものにこだわり、多くのクルマ仲間がトラストを選んだところ、私はFGKで全く違うサウンドに大満足。

足回りは、TRDの延長ロアアームを使い、GABのスプリングと可変式ショックアブソーバーのキットを組み込んで車高はノーマル、フロントがネガティブキャンバー付きという仕様。これでようやく念願だった『羊の皮を被った狼』に近づいたつもりでした。

初めて書きますが、私が最初にスゴいクルマだと思った原点の1台はプリンススカイライン2000GT-Bなんですよ。友人たちからは意外だと言われますが。

ああ、『車検』から帰ってきたカリーナのエンジンをブリッピングさせた時の感動!タコメーターの針が狂ったように跳ね上がる!そして吹け落ちの速さ!自在にパワースライドができるトルクの太さ!高回転のサウンドと静かなアイドリングはジキルとハイド!

ところが、この生まれ変わったカリーナ、速さの代償として燃費はどう頑張っても長距離でリッター10キロ程度しか走らず、ネガキャンを付けたせいでステアリングも重たくなりました。仕事がメチャメチャハードだったこともあって、峠へ走りに行く気力もなく…
いくら0〜100キロを7秒前後で走れるようになっても、普段使いが不自由では困ります。

これはセカンドカーを買うしかないか、となり、3台目へと続きます。そのクルマの写真はないという絶対の自信がありますよ(笑)

初めに-5

2022-03-24 18:16:59 | 日記
不慣れなため下書きを保存し損ねてしまい、かなり凹みました。気を取り直してもう一度書きましょうか。

シビックの試乗は寒い秋雨の日。Nならば2速の坂をシビックは3速で楽々と登ります。そしてヒーター。暑いほど効くことに驚き、家族全員が気に入りました。試乗車は深い赤色の2ドアハイデラックスでした。

結局、納車が間に合わず父の転勤先へはこの試乗車で向かい、3ドアGLは後日、吹雪の早朝に運ばれて来たのを覚えています。

小6途中での転校はうれしくなかったけど、翌年は中1へ進級。当時、羽振りの良い漁師さんが多いマチだったので、フォードムスタング、コスモスポーツやフェアレディZ、しかも240ZGまで走っていました。
ウチのシビックもまだ珍しかったので、スタンドや洗車場では人気者でしたよ。

ただ、ホンダの初期ロットらしくトラブルは多かったようで、3時間ほどの距離にあった『ホンダSF』に何度も入院していました。

父は相変わらず怖い存在でしたが、ドライブには本当によく連れて行ってくれ、行く先では大体決まってラーメンを食べました。
このシビック、加速時に聞こえるクーッというギアノイズまで大好きでした。

そんな中1の冬に起きた大事件がオイルショックで、クルマの新車価格はもちろんのこと、物価が急上昇。
リッター60円くらいだったガソリンがいきなり100円になり、スタンドが日曜定休とか給油1回につき20リッターまでなどの制約があったはずです。

中2で故郷へ戻り、本屋へ行った私は、一冊の薄い雑誌を手に取りました。それは、八重洲出版の『ドライバー』で、月2回発行とは知らず単に220円で安かったから。
その後、自宅購入を機にシビックを手放すという憂き目にあった父の目を盗み、買っては隠れて読み続け、そのうちモーターファンも買い始め、たまにモーターマガジンも買うなどお小遣いは全て雑誌へと消える日々を送りました。

中3の年には昭和50年排ガス規制がスタートして、国産車は受難の時代を迎えますが、私の中では昭和58(1983)年のドアミラー解禁あたりまで続いたように思います。
発売直後のシビックCVCCに試乗した父がボソッと、「吹けが悪いなぁ」と残念そうに呟いてたっけ。

さすがに高校生になってからは、隠れて読むことはなくなり、生意気にも新車の発表展示会へ足繁く通ったものの、何かしら文句を言われるのがイヤで、家庭内でクルマの話題はほとんどなし。
ただ、中古車を買う話が出た時には、絶対に未対策のツインキャブにしてね、と言いました。そして、TA20系のカリーナ1600STがやってきたのです。2T-Bエンジンはハイオク仕様でした。そういや、カリーナの前にちょっとだけ乗った大古車のカローラ1200ハイデラックスの3K-Dもシングルキャブながら高圧縮比のハイオク仕様でした。
一応、息子の願いを聞き入れる耳はあったんですな…

初めに-4

2022-03-21 12:00:00 | 日記
昨日は、初代シビックの登場でホンダに落胆したところで終わりました。

既にその頃の私、クルマ命ってほどではなくなっていたんです。
もちろん、新車が発売されたら新聞広告をじっくりと読み込んで、書かれてある簡単な諸元は全て頭の中に叩き込むくらいのことはしてました。

その頃で特に印象に残っているのは、B110サニーGX5の『直結5速』。他車とシフトパターンが違っていたのはすぐに分かったけれど、それ以上は分からなかったし、調べもしませんでした。まさか、5速が1.000の直結という意味だなんて、考えもしませんでしたよ。
あとは、レオーネクーペにRXが追加されて、4輪ディスクブレーキと5速が売りだったこと。そして、レオーネって随分値段が高いんだな、とも思いましたね。

そういや当時、父は自身3台目のホンダN360、NⅢ360ツーリングに乗っていましたが、レオーネRXの新聞広告が初めて出た日、盗難に遭ったのでした。

一週間後、ツインキャブのシリンダーヘッド回りやタイヤ(ノーマルは2PR、ツーリングは4PR)、ヘッド&フォグランプ、ツーリング用グリル、内装ではシートなど外せる物は全て外されドンガラに近い状態で角材の上に載せられて、父の通勤ルートにある廃倉庫裏で発見されましたが、警察からは同型車に乗っている者の仕業だろうと言われたそうです。
犯人は捕まりませんでした(笑)

さて、中古パーツも使って修復されたNⅢがようやく戻ってきて間もなく、不定期人事で父が転勤することになります。
最果ての地へ転勤、それを人は左遷というらしい…家族の前では気弱な面を一切見せることのなかった父…寂しそうな顔をしたのを初めて見ました。そこへ母の容赦ないひと言。
「あんた、何かやったの?」
今でも忘れられません。でも、夫婦喧嘩に発展することはなかったです(爆)

ちょうどその年、軽自動車にも車検制度が適用されることが決まり、軽のメリットがなくなるし、転勤という節目だし我が家も『普通車』にしようか、となりました。
引越しと転校がイヤだなぁという気持ちよりも、新車だ新車だウチも初めての普通車だぁーっ!と有頂天になった私。単純でしょ?

アコードサルーンの巻に既に出てきた、例の工場主に父が相談したところ、ホンダ1300の7のセダン(9は既に廃番)とシビックのカタログを持ってきました。
4人家族で私は小6、妹は小4。当然4ドアとなりそうなところ、空冷のNで北海道の冬に苦労した父は水冷のシビックがお気に入りの様子。
ちなみに、工場主の当時の愛車は泣く子も黙るCVキャブ4連装の1300クーペGTL。私はホントはそっちが良かった。

転勤までに納車できそうなシビックを調べてもらったら、エジンバラブラウンメタリックの3ドアGLだけと分かり、最高グレードだ!とまたまた私は大喜び。
特に、GLと3ドアは遅れて9月に発売になったばかりでした。

青い表紙の厚口カタログを穴の開くほど見つめて分かったこと。
シビックは速い。馬力は小さいが車体が軽いから。特に69馬力のGLは100キロまでならスポーティーカー並み。
シビックは車高が低い。確かフロンテクーペとフェアレディZの次くらい。
シビックのGLはリヤにもワイパーが付いている。

ふと思うと、これらは全て昭和47(1972)年のこと。もう半世紀、50年も前なんですね。

相変わらず先へ進まず、ごめんなさい。

初めに-3

2022-03-20 08:16:00 | 日記
初めに、なんちゃって、もう-3になったら初めも何もあったもんじゃありませんね。
でも、中途半端はイヤだし続けますよ。

そうです、プラモデル作りに熱中したのですが、興味の対象がWWⅡのミリタリーものになりました(超たくさん作ったので割愛)。
小学校の6年間でトヨタ2000GT以外に作ったクルマのプラモは、マツダコスモスポーツ、ポルシェ908、ミニカ70GSS、ホンダ1300 99S、ホンダNⅢ360ツーリングS、セリカ1600GTくらいしか思い出せません。

でも、後に気付いたのは、熱中したプラモ(の実物)には全てエンジン=発動機があるという共通点。
要はエンジンが好きだったんですな。今でもDB601は本当にすごいと思ってますし。

ただ、クルマ離れしていた中でも、ホンダ車は別格でした。
それは、父がキャロルから当然のごとくホンダN360に乗り替えていたせいもありますが、ホンダ1300が世に出た時の衝撃が忘れられなかったから。

確か、三菱コルトギャランと相前後してデビューしたはずで、ギャランのAⅠが87馬力で1300だから例の計算(←「初めに-2」をご覧ください)では174と130。こりゃ高性能だぞと思ったら、ホンダ1300はシングルキャブの7でも200と130、4キャブの9に至っては230と130って、これはいったい何なんだ、と。

何はともあれ、小さな排気量から高出力というのが好きで好きでどうしようもなかったんでしょうね。

それではスポーツカーも大好きだったかというと、初代のZが出る前のフェアレディは不恰好であまり好きじゃなかったし、ベレットGTは前が上がり気味で後ろが低くて、タイヤがボディーの中にめり込んでいてイマイチ。
そもそもスポーツカーなんて一般家庭では夢のまた夢だったから、とにかくエンジンに注目していたんだと思います。

クルマよりもミリタリーものへと興味が向いたとは言っても、毎年、父の友人から送られてくる東京モーターショーのガイドブックとカタログが楽しみでした。
ただ、隅から隅まで暗記するほど読みふけって他のことをしなくなるので、父は私の目からガイドブックやカタログを引き離しにかかります。
官舎の裏で、ガイドブックやカタログ類が灯油缶の中で無惨に焼かれ、灰になっていくのを目にした時の気持ち…今思い出しても辛くて。
昔の父親は、家庭では絶対君主でした。父に逆らうことは決して許されなかったのです。

そして小学校最後の年、私にとって違う意味で『衝撃的』なクルマがホンダから発売されます。それは初代シビック、SB1でした。
私は早速、例の計算をしますが、えっ!たったの60馬力?1,200ccで?それじゃ120と120にしかならない?510になる前のブルーバードくらいの馬力?
スタンダードでわずか600kgちょうどという超軽量な車両重量に考えも及ばず、ホンダがホンダでなくなったと激しく落胆したものでした。

いゃ〜、初めに、はパート4どころかどこまでも行っちゃいますな。申し訳ありません。

昭和53(1978)年式ホンダアコードサルーン1800GF(5MT) S57.3〜4

2022-03-19 08:11:00 | 日記
やっぱり写真がなくて、乗っていたのと同じ外装色で外国のHPに貼られているのを借りてきました。
今みてもこの色、好きです。

買ったのは昭和57(1982)年3月。
マッドネスのCMで初代シティが華々しくデビューした直後、学生の分際で初の愛車は新車と目論み、バイク時代から父がお世話になっていた町工場に相談しました。

別にそれほどシティが好きだった訳ではなく、当時、父が乗っていたTA45のカリーナ1600GTを狙っていたんですが、もらえるはずもない。仕方なくホンダ車、それも安いのを買い、交換してもらおうかなと考えた次第。

でも、50過ぎの父にシティRだなんて、私も何を考えていたんだか…もちろん却下されましたが、父は工場主のアコードサルーンが気になった様子…これを買っておいてゆくゆくはカリーナと交換だ〜♪という作戦に出たのでした。

このアコード、標準の6.45-13のバイアスに替えて当時発売間もないヨコハマのアスペック175/70HR13をボディー同色に塗ったアルメックス(←懐)に履かせてあって、外見はシック。
しかし、シャシーとのマッチングが良かったのかほとんどタイヤが鳴かず、下りのコーナーでは侮れない速さでした。
タイヤ外径が数%小さい分、加速力も向上していたようで、パワー不足を感じることはなかったです。

エンジンはホンダ車特有の「ウォン」という音とともに滑らかに吹け上がり、とっても静か。燃費は長距離でリッター13キロくらい、街中でも10を切ることはなく、CVCCの弱点だった吹け落ちの悪さに目をつぶると、大きな不満はなかったです

お気に入りのボッシュの角型フォグを体裁良く取り付けたし、お次はヘッドライトも交換して、とモディファイの計画も立てました。

ただ、幼稚園の頃、私の脳裏に刻まれた『高回転のホンダ』ではなかった。
6,000からレッドになるタコメーターなんて…こりゃ、例の作戦を決行するしかない…となりました。