9日目朝5時。アマルフィのホテルをチェックアウト。今日はアマルフィの東の街サレルノから列車に乗って、北イタリアのヴェネツィアに向かう。残念ながらヴェネツィアの天気は悪いらしい。
時間きっかりにドライバー・ガイドのルイ―ジさんが待っていてくれた。
ルイ―ジさん、前日はアマルフィのはるか東に有る、イタリア半島のかかと部分のアルベロベッロ(とんがり屋根の家の集落で有名)でガイディングしていたと言う。「お疲れでしょう?」と尋ねると、「いつもこんな感じですよ。」と早朝から元気に答えてくれた。
まだ暗いアマルフィ海岸を暫く行くと「ミノーリ」という町に。
更に行くと「マイオーリ」という町に着く。この"Minori"川と"Maiori"川の河口に繁栄した町は、音楽用語のMinor、Majorと同義語。ミノーリの方が町が小さい。この辺りはセラミックが盛んで、町も陶器で飾り付けられたりしている。
1時間ほどでサレルノ到着。
「朝食は如何?」とルイ―ジさんが、早朝から開いているカフェに連れて行ってくれた。外で待ってくれているので、彼にもホットコーヒーを買って手渡した。喜んでもらい、少しだけサレルノの朝の海岸を散歩した。
サレルノ駅でルイ―ジさんにチップを渡し労をねぎらって別れる。人の少ないホームで列車を待つ。
特急列車に乗り込む。
通路を挟んで近くにアメリカ人と思われるオバちゃんが座り、目の前のイタリア人のオバちゃんに英語でローマの見どころを聞いている。どうやらこの後、行くようだ。しかし話を聞いていると、アメリカ人のオバちゃん、旅に関してなんの下調べもしてないらしく、イタリア人オバちゃんも英語が不自由らしく、お互い四苦八苦している。その隣で話を聞いていた中国人と思われるオジサンが堪らず流暢な英語で説明を始めた。どうやらアメリカ人らしい。僕の前にも中国人のオバちゃんと青年が座っているが家族らしい。
全く理解できないイタリア語ではなく英語なので話が全て僕の耳に入って来る。オバちゃんは大学の教授らしく、オジサンはビジネスマン。息子は大学受験間近で何とかならないか?的な話が始まる。オバちゃんの専門の話から、その専門と有名な大学教授の話、それから大学バスケット・ボール・リーグの名勝負の話題に及び、えらい盛り上がっている。オジサン、無心にゲームに興じている息子を「先生の話を聞くんだ!」叱り、車内は面接会場と変わった。欧米か?! いや、アメリカか、ここは? 俺は、朝早くて車内で寝たかったっつぅの!
フィレンツェ通過。
有名な大聖堂のドゥオーモがちらっと見えた。この後、スパゲッティー・ミートソースで有名なボローニャを通過。
いよいよヴェネツィアに近づいてきた。本土からヴェネツィアに渡る。
ヴェネツィアに到着。
ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅
駅を出た瞬間、運河とこの景色が広がる。天気は曇り。
さっそく水上バスに乗り、中心地サン・マルコ広場に向かう。
うぉ~、見えて来た!
上陸、ホテルに向かう。ここが「ため息橋」か?? おぉ!ゴンドラだぁ。
スーツケースを引きづって、ホテル到着。
チェックインが整うまで時間が有るのでテラスでビール。振り向けば酒。w
ホテル内の客室に通じるサロン。なかなか豪華な内装です。
荷物を置いて、早速散策開始。
海に木の杭を打って、その上に建物が立ってたりする。
不思議で仕方ない。なんで沈まないんだ?昔の人がどうやってそんな長い杭を何本も打てたんだ?
ロマンチックな町だし、大枚はたいてもゴンドラに乗ってみよう!と思っていたけど、水は案外臭くて汚いのでそんな気は失せた。
名物の一つ「リアルト橋」。
リアルト橋からの景色。
お昼は「Cantina Do Mori」にて。
こういうお店を「バーカロ」といい、コロッケとか小皿料理を「チケッティ」というらしい。スペインのバルでタパスをちょいとつまんでハシゴする感覚かな。メチャクチャ美味ってわけじゃないけど、ヨーロッパでこういうとこで飲むのに憧れてたので嬉しい。
また水上バスに乗る。先程渡ったリアルト橋が見える。
景色は綺麗だけど、緑色の海水には変な藻が一杯浮いている。結構、インドのガンジス川っぽい。
とはいえ、この景色は幻想的で異国情緒に溢れる。
再び、サン・マルコ広場に上陸。
サン・マルコ大聖堂は残念ながら改築工事中。
広場の真ん中へ。
左がサン・マルコ広場の鐘楼(1515年落成)、右がドゥカーレ宮殿(810年に建設開始、1615年完成)。
この景色を見ると、やはり中世の旅人になった気分になる。
あ!これが「ため息橋」じゃねぇの??
やはりこれが「ため息橋」だった。
ドゥカーレ宮殿の尋問室と古い牢獄を結んでいる。ため息橋からの眺めは囚人が投獄される前に見るヴェネツィアの最後の景色であった。ため息橋という名前は、独房に入れられる前に窓の外からヴェネツィアの美しい景色を見られるのは最後であるというので囚人がため息をつくというところから、19世紀にジョージ・バイロンが名づけたものである。実際には、厳しい取調べや略式の刑執行は橋が建設された頃には無くなっており、宮殿の屋根の下の独房も専ら短期刑の囚人のものであった。(ウィキペディアより)
ドゥカーレ宮殿の海を挟んで真ん前の「サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会」に水上バスで渡る。
時間きっかりにドライバー・ガイドのルイ―ジさんが待っていてくれた。
ルイ―ジさん、前日はアマルフィのはるか東に有る、イタリア半島のかかと部分のアルベロベッロ(とんがり屋根の家の集落で有名)でガイディングしていたと言う。「お疲れでしょう?」と尋ねると、「いつもこんな感じですよ。」と早朝から元気に答えてくれた。
まだ暗いアマルフィ海岸を暫く行くと「ミノーリ」という町に。
更に行くと「マイオーリ」という町に着く。この"Minori"川と"Maiori"川の河口に繁栄した町は、音楽用語のMinor、Majorと同義語。ミノーリの方が町が小さい。この辺りはセラミックが盛んで、町も陶器で飾り付けられたりしている。
1時間ほどでサレルノ到着。
「朝食は如何?」とルイ―ジさんが、早朝から開いているカフェに連れて行ってくれた。外で待ってくれているので、彼にもホットコーヒーを買って手渡した。喜んでもらい、少しだけサレルノの朝の海岸を散歩した。
サレルノ駅でルイ―ジさんにチップを渡し労をねぎらって別れる。人の少ないホームで列車を待つ。
特急列車に乗り込む。
通路を挟んで近くにアメリカ人と思われるオバちゃんが座り、目の前のイタリア人のオバちゃんに英語でローマの見どころを聞いている。どうやらこの後、行くようだ。しかし話を聞いていると、アメリカ人のオバちゃん、旅に関してなんの下調べもしてないらしく、イタリア人オバちゃんも英語が不自由らしく、お互い四苦八苦している。その隣で話を聞いていた中国人と思われるオジサンが堪らず流暢な英語で説明を始めた。どうやらアメリカ人らしい。僕の前にも中国人のオバちゃんと青年が座っているが家族らしい。
全く理解できないイタリア語ではなく英語なので話が全て僕の耳に入って来る。オバちゃんは大学の教授らしく、オジサンはビジネスマン。息子は大学受験間近で何とかならないか?的な話が始まる。オバちゃんの専門の話から、その専門と有名な大学教授の話、それから大学バスケット・ボール・リーグの名勝負の話題に及び、えらい盛り上がっている。オジサン、無心にゲームに興じている息子を「先生の話を聞くんだ!」叱り、車内は面接会場と変わった。欧米か?! いや、アメリカか、ここは? 俺は、朝早くて車内で寝たかったっつぅの!
フィレンツェ通過。
有名な大聖堂のドゥオーモがちらっと見えた。この後、スパゲッティー・ミートソースで有名なボローニャを通過。
いよいよヴェネツィアに近づいてきた。本土からヴェネツィアに渡る。
ヴェネツィアに到着。
ヴェネツィア・サンタ・ルチア駅
駅を出た瞬間、運河とこの景色が広がる。天気は曇り。
さっそく水上バスに乗り、中心地サン・マルコ広場に向かう。
うぉ~、見えて来た!
上陸、ホテルに向かう。ここが「ため息橋」か?? おぉ!ゴンドラだぁ。
スーツケースを引きづって、ホテル到着。
チェックインが整うまで時間が有るのでテラスでビール。振り向けば酒。w
ホテル内の客室に通じるサロン。なかなか豪華な内装です。
荷物を置いて、早速散策開始。
海に木の杭を打って、その上に建物が立ってたりする。
不思議で仕方ない。なんで沈まないんだ?昔の人がどうやってそんな長い杭を何本も打てたんだ?
ロマンチックな町だし、大枚はたいてもゴンドラに乗ってみよう!と思っていたけど、水は案外臭くて汚いのでそんな気は失せた。
名物の一つ「リアルト橋」。
リアルト橋からの景色。
お昼は「Cantina Do Mori」にて。
こういうお店を「バーカロ」といい、コロッケとか小皿料理を「チケッティ」というらしい。スペインのバルでタパスをちょいとつまんでハシゴする感覚かな。メチャクチャ美味ってわけじゃないけど、ヨーロッパでこういうとこで飲むのに憧れてたので嬉しい。
また水上バスに乗る。先程渡ったリアルト橋が見える。
景色は綺麗だけど、緑色の海水には変な藻が一杯浮いている。結構、インドのガンジス川っぽい。
とはいえ、この景色は幻想的で異国情緒に溢れる。
再び、サン・マルコ広場に上陸。
サン・マルコ大聖堂は残念ながら改築工事中。
広場の真ん中へ。
左がサン・マルコ広場の鐘楼(1515年落成)、右がドゥカーレ宮殿(810年に建設開始、1615年完成)。
この景色を見ると、やはり中世の旅人になった気分になる。
あ!これが「ため息橋」じゃねぇの??
やはりこれが「ため息橋」だった。
ドゥカーレ宮殿の尋問室と古い牢獄を結んでいる。ため息橋からの眺めは囚人が投獄される前に見るヴェネツィアの最後の景色であった。ため息橋という名前は、独房に入れられる前に窓の外からヴェネツィアの美しい景色を見られるのは最後であるというので囚人がため息をつくというところから、19世紀にジョージ・バイロンが名づけたものである。実際には、厳しい取調べや略式の刑執行は橋が建設された頃には無くなっており、宮殿の屋根の下の独房も専ら短期刑の囚人のものであった。(ウィキペディアより)
ドゥカーレ宮殿の海を挟んで真ん前の「サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会」に水上バスで渡る。
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