最近、NHKの「こころの時代」で、ヴィクトール・フランクルの6回にわたる特集を見ている。 2024年9月23日
何しろ、一回がたっぷり一時間もあるので、合計6時間。 フランクルの著作は読んではいたが、改めて気が付かされることがあってありがたかった。
フランクルの言葉は以下の文が一番有名だ。
「ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ何を期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。」…「夜と霧」
コペルニクス的転回と言われ、何か勇ましい、ポジティブな感じがして、感動を覚えるのだが、それだけでは腑に落ちない。 具体的に、今の自分に私の人生が何を期待しているのか? と自分に問いかけても答えがない。 そもそもどうして「人生」なるものが私に期待しているのか? その根拠は? そう思ったら、すぐにわからなくなった。
上記の文章は自分を中心にして人生を眺めるのではなく、人生を中心にして自分を眺める。つまり、人生から何を与えてもらうかではなく、人生に何を与えることができるかだと説明される。 コペルニクス的と言うのは天動説から地動説への転回のことであり、自分という地球を中心に天の全ての星が回っているのではなく、他の惑星(他の人々)といっしょに太陽(ここで言う「人生の意味」)を中心として回っているということになる。
でも、こう言われてもまだわかった気がしない。
2011年、東日本大震災では死者・行方不明者が2万2200人以上にのぼった。 もし自分がその災害に遭ったとしたら、その事実がここで言うところの「私の人生」となる。
その「人生」が私に何を期待しているのか? と、自分に問いかけてもなかなか答えは見つからない。 これが仮に「人生」を「神」に替えたらどうだろう。 また「運命」に替えたらどうだろう。 もし「神」が自分や死んだ人に、こんな過酷な仕打ちをするのなら、試練を与えたなんて言われたら、そんな「神」は要らない!
もし「運命」がそうするのなら、自分は耐えられない。 それで自滅していったとしても、それも「運命」に違いない。
重要なのは、ロゴセラピーは、津波が起こったこと、それで犠牲者が出たこと、これ自体に意味があるとはけっして言っていないということ。 津波がおこったのは大地震が原因であり、それは地球規模の地殻変動であって、ここに何らかの人間的意味を付加することはできない。 昔なら「神がお怒りになった。」と言うかもしれないが、今ではこんなことを信じる人は稀だろう。
ところが、人間は「意味への意志」を本性として持っている。 その本性に従って「意味」をこちらの方から、発見し、学ばなければならない、また誰かが見つけ、学ぶことを、助けてあげなければならない。
けっしてフランクルのような偉大な目標でなくてもよい。 むしろ小さなことでも、それが今の自分に最もしっくりくる「意味」ならばそれでよいのだ。 フランクルの言う「意味」は、自分の置かれた一刻一刻の状況に対する小さな日常の選択の積み重ねという意味でもある。
ただ、この「意味への意志」は愛に基づくものだけではない。 そのしっくりくる「意味」が憎しみ、復讐から生まれたものだったら、今、イスラエルが行っているポケベル爆弾のような見境のないテロにすぐに変わる。 これでは、ユダヤ人がパレスチナ人にやっていることが、ナチスがユダヤ人にしたことと変わらなくなる。 パウロが回心の前にキリスト教徒を迫害していたことと変わらなくなる。 北朝鮮では日本が悪だと子供に徹底的に洗脳することによってその子供たちの生きる「意味」の一つが形成される。 逆に日本のマスコミも北朝鮮が悪だと「意味」を形成している。
いずれにしても、「意味」は与えられるものではなく、自分で発見し、選択していかなければならない。
それと同時に、逆説的だが、「意味」は自分で勝手に捏造できるものではないということも知っておかなければならない。 それは日常の生活の中で、否応なく呼びかけられる、問いかけられることによって、そしてその呼びかけに耳を塞がないことによって得られると言う。 その時、Yesと答えるか、Noと答えるか、選択の主体はいつも我々にある。
津波は神がおこしたのでも、運命がおこしたのでもない。 そうではなく、津波によっておこった様々な関連事と自分との現実的な関わり合いの中に、こちらから意味を発見するということなのだ。 意味が発見され、選択した時、後になって「ああ、これは神が導いてくれたんだな。」ということが分かる。 運命的なものを感じる。 そして人生は出来事に意味を探るという精神的な働き自体にも意味を与えてくれる。 しかしそれらのすべては、その時点ではまったくわからない。 その時点で我々に与えられている最良の言葉は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」…申命記6-5なのだろう。 これはイエスが最も大切な掟としたものだ。 そしてこれは今も昔もユダヤ人にとっても変わらない。
フランクルは収容所に入る前から一つの人生の目標があった。 それはフロイドでもなく、アドラーでもない、自分が発見した新しい療法を確立することだった。 それがロゴセラピーだったのだが、彼はこの草稿をコートに縫いこんで隠して持ち込んだ。 ところが、ある時、その草稿も丸裸にされて、奪われてしまった。 その時、希望が失われたと彼は思った。絶望的になった。 しかし次に支給された囚人服のポケットに、小さな祈りの言葉が書かれた紙片を見つけた。この囚人服を着ていた人が隠したのだろう。(その人は死んでしまったに違いない。) そこには上記の言葉、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」が書かれてあった。 そしてこれがきっかけとなり、彼はこの奪われた草稿に書かれた理論を最後に残った自分の身体で実践してみたらどうだと神に問いかけられたと思い、生きる意味を見出す。逆に、もし草稿がそのまま残っていたら、死んでいたかもしれない。
私たちは自分にとって、最悪のことが起きたとしても、それが自分の人生にどのように影響を与えるか最終的にわからないとして、判断を停止することができる。 私たちは過去は変えられないし、今起こったことも変えられないと信じているが、それらは今、この場で完全に視点が変えられるのかもしれない。 過去も未来もその認識がまったく変わるかもしれない。
それに必要な最初のきっかけは、現象学で言うところのエポケー(判断停止)なのだ。 つまり我々が通常おこなう反応、何も意識しなければ自然にそうなってしまう反応、いわゆるエゴの反応、そして反応に対応する思考、それらが起こってくる直前に、意識的に停止して、そこに距離を開ける。 その時視点が変えられる可能性が生まれる。 直線的、不可逆的因果律の時間の流れから外れて、横のベクトルから上は天に、下は深層心理、人間全体につながる縦のベクトルに移ることができる。 これはまさに超越論的展開となる。
番組で勝田さんというロゴセラピーの解説者が言っていたことを、私なりに解釈するとこうなる。
我々は通常、何も意識しなければ、自分の生命を守る行動しかとらない。 しかしこのエゴから距離を取り(エゴから退き)、超越する時(自分を乗り越える時)、他人の命を守ろうとするような別次元(精神的次元)の行為が生まれる。 この身体と心の次元からの超越は自分だけではできない。 自分を引き揚げてくれる力が必要なのだと言う。
超越はニーチェもハイデッガーも語った。 我々はニーチェの言う「末人」、ハイデッガーの言う「世人」から超越しなければならない。 サルトルも実存という形でそれを表現した。 しかし彼らはフランクルが述べた自分を引き上げてくれる大いなる存在のことは敢えて言及しない。それによって我々は大きな間違いを起こすことがある。 ハイデッガーがナチスを絶賛したように。
フランクルが最後に入ったティルクハイム収容所の指揮官は、自分の給料から、ユダヤ人の病人のための薬を買って与えていた。 フランクルは演説の中でこう言う。
「皆さんはこれは例外だと言うだろう。 確かにこれは例外です。 しかし人間にはこのような例外こそが必要なのです。 理解し、許し、和解に至るためには私たちが多くのことをないがしろにしてきたことは事実です。 しかし相手を責める前に、まずは心から理解しようとし、思いやってください。 今、私たち一人一人の良心は呼びかけを受けています。」
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