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自己距離化と自己超越

2024-10-04 11:31:35 | ノート

自己距離化と自己超越

何か自分の意図に反することが起きている時、心がザワザワしたり、嫉妬したり、恐怖が襲ってきたり、鬱になったり、絶望的になったり、不安になったりするのは、自我がやっていることであり、その自我との距離を取ることが大事。そうすれば、客観視し、笑い飛ばせるようになると言われる。

これをフランクルは「自己距離化」と言う。 自己距離化には「逆説志向」という方法がとられる。 吃音の少年が学芸会で吃音の役を与えられ、意図してどもりながらセリフを話そうとしたところ、ちっともどもることができず、ついにその役から降ろされてしまったというエピソードがある。 自分の話し方に過度に志向し、過度に反応することによって生じてしまった吃音が、逆にどもろうと逆説的に志向したら、どもらなくなったのだ。これは逆説志向によって自己距離化が可能になり、効果を生んだ例だ。。 

それでは身体的な苦痛はどうだろうか? これについてはフランクルはこう言う。

「…ガンの痛みは自我ではなくむしろ確実に視床に属している。しかし…故人を失った悲しみは、確かに人間に属しているのであり、視床に属しているのではない。」

私は数週間前まで歯痛があり、この身体的な苦痛にどう対処すればいいか、試行錯誤していた。 何かスピリチュアルな方法で、それをすると痛みが無くなるような特別な方法があるのではないかなんて思った。 でも結局のところ、一番いいのは、なんてことはない、単純に、ちゃんとした歯医者に行くことだった。 神経を抜いてもらったら一発で歯痛は収まった。 当たり前の話。 これはフランクルが言うように脳の視床の話だった。

ただし、「自己距離化」は、この身体的な痛みが、例えば、歯医者がお盆休暇だったり、またはヤブ医者だったとして我慢しなければならない状況に陥った時には、やはり有効になる。 もちろん、痛みは変わらない。 しかしここの身体的苦痛が引き金になって、自我による未来への不安や恐れに堕ちこんでいくのを防いでくれる。 この時、痛みで「ある」のではなく、痛みを対象化して「持つ」ということになる。 これは身体的な苦痛から、日常的な苦悩にまで適用される。 距離を作って対象化することで笑い飛ばせるようになる。 ジョーン・トリフソンが言ったように、「ああ、またジョーンが二元のダンスを踊っているな」と言うことができるようになる。

快川和尚の「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉は、無念無想の境地に至ったら火さえも涼しく感じられるということだと言われるが、確かに厳冬のヒマラヤで真裸で生活して、凍傷にもならないヨーギのような人も実際にいる。 つまり自在に身体的反応を制御することが可能らしいが、私のようなナマクラにはあまりにもハードルが高い。 

これと同時にもう一つのことが言われる。 それは自己超越だ。 
私たちは通常、自己を意識していない。 自分の身体維持に脅威を及ぼされるような情報を得た時に自己を意識し始める。 例えば、私たちは熱いストーブに触ってしまった時に「アチッ」と手を瞬間的にひっこめる。その時、手を引っ込める身体的な反応が先に来て、そのすぐ後から痛みを感じる。 痛みを感じ始めてから自己を強烈に意識し始める。 そしてこれは身体的なものではなく、家賃が上がりそうだなんていう情報だけであっても、同じように作用する。 つまり実際に自分の身体維持に脅威がおこった瞬間は自己を意識する前に身体の方で反応するが、将来に脅威が起こりそうな場合に自己を意識し始める。

その時、恐怖や不安がおき、自己を意識する。 それは人間に予めプログラムされているのであり、だからこそ、私たち人間は来年、不作が起こる予想を立てて、備えるということができるようになったわけだ。 ここで起きる恐怖や不安は、行動するための原動力となる。恐怖や不安(クオリア)は我々の行動の背中を押すのであり、私たちの生命維持には欠かせないものなのだ。

しかしこれが過剰に発動されるとき、我々は自分で自分の首を絞めることになる。 実はまったく実際には脅威が起こっていないのに、我々は絶えず恐怖と不安におびえることになる。

すべての人にこの恐怖と不安がある。 そして身体の最大脅威としてすべての人に死がある。 これからは誰も逃れられない。 この恐怖と不安に対処するために、我々はそのことを、いつか、知らない、特定できないこと、そして周りの人はみなそうなっているが、自分には例外として死が来ないかもしれない、少なくとも今日、明日ではないと、自分で自分を騙している。 そして現在だけを生きようとしている。 
ハイデガーはこれを「頽落」と呼び、好奇心、世間話、曖昧さを示していると言った。 例えばYoutubeやTikTokは次から次へと新しい動画が流れ、思わず時間を忘れて見てしまう。1つの動画を見ても、また面白い動画が待ってるかもしれないという予期がある。 街に出ると、ほとんどの人がスマホとにらめっこをしている。 ゲーム、ライン、そして様々なゴシップ、動画、それらはみな、死への不安と恐怖から逃れる絶好の道具となっている。 これらは世話話のレベルであり、曖昧さは許容される。 好奇心、世間話、曖昧さは道具に対応する配慮的な気遣いや人間関係に対応する顧慮的な気遣いから解放され、責任や重荷を忘れることができる。

自己超越は、自己忘却ではない。 ハイデガーの言う頽落は自己忘却であり、実存から逃避している。 これに対して、フランクルの言う自己超越は、逃避ではなく、逆に自己を見つめていく。 自分の苦悩、逆境を見つめていく。  その点で、自己距離化の逆方向に進んでいるように見える。 

フランクルは先にこう言った。 「故人を失った悲しみは、確かに人間に属しているのであり、視床に属しているのではない。」 自分の妻が病気の苦痛の中で亡くなったという現実があった時、先ほどと同じように自己距離化をして、客観化し、笑い飛ばしていいのだろうか? これは幻想であり、夢なんだと思い込んで、離れていいのだろうか? フランクルはニーチェの「生きるべき『何故』を知っている者は、ほとんどすべての『いかに』に耐える」という言葉を類繁に引用する。 つまり、われわれは苦悩そのものに苦しむのではなく、苦悩に意味がないことに苦しむ。 逆に言えば、意味のある苦悩というものがあるとフランクルは強調するのだ。

もし非二元の人たちが、目の前で起こっている悲惨な出来事、紛争や虐殺、それらはみな幻想であり、夢なんだと片づけて、意味のある苦悩から逃避しているのなら、その先の真の自己超越にまでは至らないように思う。    彼らは結局、彼らの好みの別の幻想、夢、桃源郷、信念をこしらえて見ているに過ぎない。

自己超越は苦悩を受け止めて、自分を見つめていった先にたどり着く反転だと思う。 別の言葉で言えば、「降参」のことだ。 もうお手上げ。 もうダメ。 その時、「脱反省」が起こる。 エゴから離れ、過剰な反省を止める。 反省とは自己を省みて、自己の負い目を確認し、自分で矯正しようとすることだ。 自分の負い目を確認し、自分で矯正することもあきらめた時、「脱反省」が可能になる。  自己超越が起こる。 自分を超えた大いなる存在に自分を預けてしまう瞬間だ。

自己超越(非対象化)は自己距離化(対象化)と矛盾するように思えるが、実は自己距離化をして、対象化している時の、対象を見ている主体は、非対象化した大いなる存在なのであり、矛盾はしない。 これを非二元の人は「気づき」と言う。



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