首里城祭の一環として、11月1日(11:40~11:55)、「冊封使行列」が行われました。綾門大通りで待機していた一行が、ドラの音とともに歩き出し、守礼門をくぐり、首里城内に入って行きました。その後、奉神門から御庭に入り、冊封儀式(12:10~13:10)が行われることになっていました。
当日は、首里高校の生徒・県立芸大の学生を中心としたメンバー33名(路地楽隊、琉球武官)の演出でしたが、沖縄県立博物館蔵の『冊封使行列図』(横22m50cm)には、『龍亭と綵亭(公文書や国王印、絹織物などを収容)』『馬に乗った武官』『冊封正史と副使』『龍旗』など、琉球人380名余、冊封使一行220名余、合計600名余の人々が描写され、中山門から綾門大通り一帯には、大勢の見物人が詰めかけたといわれています。
「(古琉球/大交易時代の琉球 2/7)冊封と王権…冊封(さくほう)とは、各国の有力者が、中国皇帝から国王として承認を受けることです。そして、新国王の即位式をとりおこなうために、中国皇帝の命をうけた冊封使(さくほうし)が特定の国々へ派遣されました。
冊封使が琉球にはじめて訪れたのは、1396年の北山王・攀安知(はんあんち)の時とも、1404年の武寧(ぶねい)王の時ともいわれています。しかし、それ以後、琉球王国最後の王・尚泰(しょうたい)まで、およそ500年ものあいだ冊封制度は継続しました。
冊封使の一行は総勢400人にもおよび、琉球に約半年間滞在しました。冊封使の任務は、先代王の葬儀である諭祭(ゆさい)と、新国王の即位式である冊封をおこなうことでした。これらの儀礼は首里城正殿前の御庭(ウナー)で盛大にとりおこなわれましたが、これには琉球王府の思惑がありました。つまり、冊封によって国王の権威を知らしめることと、進貢貿易を王府が独占することで経済力の拡大をはかるということです。事実、冊封使一行は多数の中国商品を持参しており、琉球王府はそれらを入手することで、東アジアにおける中継貿易国としての成功をおさめたのです。
『冊封使行列図(部分)』は新国王任命の冊封の式典のために首里城に向う冊封使一行を描いた物。横22m50cmのなかには琉球人380名余、冊封使一行220名余、合計600名余の人々が描写されている。沖縄県立博物館蔵。」
引用(沖縄の歴史INDEX http://rca.open.ed.jp/history/story/hisindex2.html)
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西のアザナ
首里城西端にある「西のアザナ」から、首里城内、那覇市街、那覇港方面を見渡すことができます。晴れた日には、慶良間諸島を見ることもできます。ここから見る夕日は絶景です。
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