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戦国武将浅井氏が鉄砲かじ集団配置 近江・国友村の始まりに新説

 戦国から江戸時代にかけて鉄砲生産で栄えた近江国「国友村」(現長浜市国友町)の始まりについて、長浜市歴史遺産課の学芸専門監で戦国史などを研究している太田浩司氏が、地元の戦国大名・浅井氏が鉄砲かじ集団を配置して成立したとの新説を発した。(論文「国友鉄砲鍛冶の成立ー編纂物に頼らない歴史構築の試み」が2020年末発行の専門誌「銃砲史研究」第391号に掲載)

 国友村」はかつて、(現堺市)と並ぶ鉄砲の一大産地だったが、生産が始まった経緯はよく分かっていない
これまで室町幕府からの発注を起源とする説が一般的で、NHKの大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」でもこの設定で描かれた。この説は江戸初期に国友村の年寄4人が記した「国友鉄砲記」を根拠とするが、太田氏は事実関係で多くの矛盾点があると指摘。「村を掌握するための政治的意図があり、信ぴょう性に疑問がある」と話す。
 
 一方、戦国大名の多くが領国内に鉄砲かじ集団を置いたことや、浅井氏が一帯の支配を確立していた時期に国友村製の鉄砲が贈答品だったことを示す書状を紹介。国友村の鉄砲鍛冶には村外出身者もいたことなどから「浅井氏は有能な人材を集めて鉄砲鍛冶(かじ)村を意図的に形成した」とみる。

 国友村で鉄砲生産を統括していたとみられる「国友藤二郎」に宛てた羽柴秀吉の書状、秀吉の家臣・石田三成が藤二郎に宛てたとみられる書状、江戸幕府から国友村への発注を示す幕府代官の書状なども紹介。
国友村では浅井氏の滅亡直後の時点で、既に組織的な鉄砲生産をしていたとみられ、秀吉や三成、幕府の保護を受け、さらなる発展につながったとの見解も示した。
 論文は20年ほど前に年寄4人のうち1人の子孫が国友鉄砲ミュージアムに情報提供した一家の文書群が端緒になった。

「銃砲史研究」第391号:1冊500円
問い合わせ: 日本銃砲史学会事務局
         yoichiriku1214@gmail.com
         https://nihonjyuuhoushigakkai.com/

<中日新聞より>

【滋賀・近江の先人第37回】鉄砲や望遠鏡を独創的に製作・一貫斎国友藤兵衛(長浜市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/d/20190625

国友鉄砲ミュージアム
https://kunitomo-teppo.jp/
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