日本国民の90%以上が仏教徒で、日本は世界を代表する仏教国の一つとされている。信仰心の問題はさておき、少なくとも儀礼の上では、亡くなった身内の方々を弔い、ご先祖を敬うのに、仏事が催される例は少なくない。また、伝統的日本文化を構成する要素の多くが、仏教に関係するものであることも、疑いのない事実である。
異国で成立した宗教である仏教が日本に伝来し、それ以前から信仰の対象となっていた在来の神々(天神地祇)に対する信仰と融合して、独特の崇拝の形が産み出された。そこには、優れた宗教者の活動が重要な役割を果たすことになった。
今日の日本仏教の原点とも言うべき場所が、湖国近江に所在する比叡山延暦寺である。比叡山は平安京の鬼門の方角に位置し、現在でも参詣には京都からバス等の交通手段を利用することが多いが、のちに延暦寺と号されることになる山林寺院を最澄が開いた地は近江国に属し、延暦寺は紛れもなく近江の寺院である。その玄関口は東麓・琵琶湖西岸の坂本で、そこは最澄の故郷であり、比叡山の土地神を祭る日吉神社もここに所在する。
766年若しくは767年に、最澄は近江国滋賀郡のこの地に生まれた。俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、応神朝に来日したと伝わる渡来人の子孫であった。 12歳の時に近江国分寺に入り、15歳で得度する。785年受戒ののち比叡山に入り、12年間籠山(ろうざん)して修行を積む。この時山中に設けた草庵が一乗止観院(いちじょうしかんいん)であり、延暦寺の前身となる。最澄は797年に下山し、桓武天皇の玉体安穏の任を帯びる十禅師(じゅうぜんじ)という地位に就いた。桓武天皇や、その側近的地位にあった和気清麻呂(わけのきよまろ)の子息・広世(ひろよ)の庇護を受けた最澄は、高僧として頭角を現し、南都・平城京の官大寺の僧にもその名が知られるようになる。最澄は天皇に懇願して入唐を果たし、天台山に赴いて行満(ぎょうまん)から天台の法門を相伝し、帰路越州で順暁から密教を受学した。
最澄の開いた天台宗は、法華経を根本経典とする宗派であるが、比叡山では他の経論や、禅、戒律、密教といった様々な教学と実践が修学され、平安中期よりその信仰が盛んとなる阿弥陀浄土の思想も、ここを拠点に広まることになった。浄土教の法然と親鸞、禅の栄西と道元、法華信仰の日蓮といった、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍し、今日の仏教宗派の開祖となった高僧は、揃ってこの延暦寺から出た僧であり、比叡山こそは、日本仏教諸宗派の発祥の地となったのである。
近江ゆかりの古代の高僧は、この最澄だけではない。時代は前後するが、8世紀半ばに東大寺の創建に尽力し、僧正の地位に昇った別当・良弁(ろうべん)は、一説に近江の百済氏の出自とされる。国宝の本堂や多宝塔を有する湖南の名刹・石山寺は良弁を開基とし、この寺院の建立も、東大寺の整備と併行して良弁の管轄下で進められた。
比叡山延暦寺についても、10世紀前半に火災により根本中堂をはじめ多くの堂宇(どうう)を焼失した延暦寺の復興に当たったのが、近江国浅井郡虎姫(現・長浜市)の木津(こづ)氏の出身である良源で、比叡山中興の祖と称される。良源は、村上天皇の女御(にょうご)で藤原師輔(もろすけ)の娘・安子の男子出生祈願の功により、師輔の信任を得、その援助を受け焼失以前よりさらに整備した伽藍を再建した。良源が本拠とした比叡山の横川(よかわ)にはその廟所が所在し、信仰の対象となっている。
最澄、そして良源の両天台僧は共に近江の渡来系氏族の出身で、東大寺僧・良弁もまた、その可能性を有している。
<立命館大学父母教育援護会・近江の風土記より>