”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第87回】蒲生野を表現し続けた日本画家「野口謙蔵」(東近江市)

野口 謙蔵(のぐち けんぞう、1901年(明治34年)6月17日 - 1944年(昭和19年)7月5日)は、日本の洋画家。滋賀県東近江市出身。

東近江市綺田町の「野口謙蔵記念館」は、画伯のアトリエを改築復元するとともに、画伯の優れた才能を顕彰するため、平成3年に開館した。
アトリエは昭和8年に建てられ、亡くなる昭和19年までの11年間、次々と世に出された数多くの名作の大半がこのアトリエで生まれ、画伯が最も充実した時代を過ごした場所だった。

尚、謙蔵の叔父に日本初のビールを作った「野口正章」と従兄で芥川賞受賞作家「辻 亮一」がいる。

以下、このブログで2人を紹介している。(クリックすればサイトにアクセスできる)

野口正章【滋賀・近江の先人第73回】日本初の市販国産ビールを作った・野口正章(東近江市)

辻 亮一【滋賀・近江の先人第74回】滋賀県出身の芥川賞受賞作家・辻 亮一(東近江市)

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ヒストリー
1901年(明治34年)6月17日、野口謙蔵は滋賀県蒲生郡桜川村綺田(現東近江市綺田町)で造酒業を営む裕福な家の次男として生まれた。
父は明治22年(1889年)、桜川村初代村長を勤めた野口正寛、母は近在の素封家岡崎銀兵衛の娘で屋恵と言った。
祖父野口忠蔵(文政5年(1822年生まれ)は美術愛好家で漢詩家、柿村と号し滋賀・京都の多くの文人と親交厚く、また、幕末には尊王運動の梁川星厳や頼三樹三郎とも親交があった。維新後は区長や滋賀県議会議長にもなった。富岡鉄斎は正寛との交遊から長く野口家に居候をしていた。

伯父野口正章(野口忠蔵の長男)の妻「野口小蘋」は明治時代の人気女流画家であり、謙蔵は一流の画家・美術品に囲まれて育ち、幼い頃から絵を描くことが好きだった。

桜川尋常小学校に入学した謙蔵は色白で病弱から学校を欠席することもあったが、成績は優等で、特に読み方とつづり方が優れていたと伝えられている。
1914年(大正3年)滋賀県立彦根中学校(現彦根東高校)に入学し親元を離れ下宿生活を行い、社交的でありながら成績は常に十番以内であった。
1917年(大正6年)陸軍大演習が滋賀県で行われた際には、彦根中学が明治天皇行幸の大本営となり、謙蔵が描いた水彩画「彦根城山大手橋」が天皇のお持ち帰りとなった。なお彦根中学では前田夕暮の門人米田雄郎(蒲生郡桜川村石塔の極楽寺の住職)に出会い、自然を愛する米田の影響を受け謙蔵は絵画研鑽を決意した。
1919年(大正8年)東京美術学校西洋画科(現東京芸大)に入学し、従姉に当たる「野口小蕙」(野口正章・小蘋の娘)宅から通った。美術学校では黒田清輝、後に和田英作に師事し、和田からは終生指導を受けた。
1924年(大正13年)東京美術学校を卒業し、故郷の風物が自身の画風確立に適していると信じる謙蔵は迷うことなく故郷蒲生に帰郷した。

美術学校卒業後、謙蔵は毎年帝展(帝国美術院展覧会(現日本美術展覧会))を目指し大作を作成したが自身の洋画に違和感を持つに至り、平福百穂の門に入り日本画の勉強を始め、一時期は洋画を一切省みることもなかった。その様な中で自分なりの洋画へのヒントを得たのか、1928年(昭和3年)第9回帝展で「庭」が初入選を果たし、以降第10回「梅干」・第11回「蓮」が連続入選し、1931年(昭和6年)第12回帝展で「獲物」・1933年(昭和8年)第14回帝展で「閑庭」・1934年(昭和9年)第15回帝展で「霜の朝」(現在謙蔵の代表作として東京国立近代美術館に収蔵)が連続して特選を受賞した。帝展が新文展(文部省美術展覧会)に名称変更した後も出品を続けた。なお、その間東光会展・槐樹社展にも出展、1933年(昭和8年)に開催された第1回東光会展には「けし」を出品、以降東光会展・槐樹社展にも出品を続けた。なお、新文展では審査委員として運営にも係わった。
1944年(昭和19年)43歳で死去する。

作風 
野口謙蔵の全ての作品は、身辺に題材を求めたものであり、特に近江の田園風景の四季と、農村風俗に対する深い愛情に溢れている。生涯、一度も洋行することなく、日本的土着のフォーヴィズムというべき色彩と筆触で高く評価されている。
野口の世界は、美しさのためにのみ描かれた世界ではないような気がしてくる。技術で達し得る美しさではないような気がする。精神より湧き出た魂の声であり、魂より光り出た世界のようにも思えるのだ。数多くの画家の中で、野口のこのような境地に到達できた人はほとんどいないのではないかとさえ思える。この世界に入るために全ての画家達は、精神を使い果たし、累々たる屍をさらしているのである。

彼は日記の一節に、「簡素、浄明、気魄と指もて大空に描きにけり。手をさしあげて大空に気魄とかきたり、吾が心よ高くゆけ。」と云っているが、まさに彼の目指す芸術は、この一節に凝視されているとさえ思われる。
その思い入れの深さが、他の画家と全く次元を異にしたものであって、その描きたいものは、すでに若い頃より心の驚きであり、驚きの表現が絵であったのである。技術的表現など変わるはずがなく、彼は周囲の自然風物に托して、自己の心の歌を、みずみずしい感動で歌い続けたのである。私が野口の絵を愛するのは以上の理由による。
野口謙蔵は署名するとき「近江 野謙」と書いた。謙蔵は故郷近江に腰を据えて絵を描いたことから「風土派」とも呼ばれる。謙蔵は詩においても「雪の野道の小鳥の足あと、美しいから踏まずに歩こう」と言葉で自然を描き、自身を取り巻く自然への愛おしさで溢れた作品を残している。

係累
祖父 野口正忠(忠蔵・柿村):蒲生の酒造業、山梨県甲州街道柳町宿に同郷者11人と共に酒造屋「十一屋」を出す。漢詩家、富岡鉄斎・依田学海・杉聴雨・江馬天江・谷口藹山・瀧和亭・田能村直入・川村雨谷・村田香谷と交流。
父 野口正寛
母 野口屋恵
    伯父 野口正章(1849-1922年)1876年(明治7年)日本最古のビールの一つ「野口の三ッ鱗ビール」を販売する。
伯母 野口小蘋(1847-1917年)南画家・日本画家、医師松邨春岱の長女として大坂に生まれる。
    従姉 野口小蕙(1879-1945年)南画家・日本画家、小室翠雲に嫁ぐが離別。

尚、弟子に八日市金屋出身(東近江市)の洋画家で中学校美術教諭でもあった「藤川与曾吉」(1928年(昭和3年)ー2016年(平成28年)がいた。

 ↓野口謙蔵記念館

 



 

 

 
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