「野間清六」家は、江戸中期(延享年代:1744年~)、下総の結城(茨城県)に店を開いたとされている。野間家は、常陸国結城(茨城県)に出店を持つ八幡商人の1つ。
醸造業を営み、「角大」近江屋久右衛門と称し、江戸末期には結城の御三家と呼ばれるほどに力をつけ、近江屋は結城藩の御用金を担当、苗字帯刀を許されるまでになる。
日清戦争の頃、「日本誉」という酒を販売した折り、時勢と合致し大きく売上を伸ばしたと伝えられている。
野間 清六(のま せいろく、1902年2月12日 - 1966年12月13日)は、日本の美術史家。日本美術史、彫刻史を研究。野間家の最後の当主。近江八幡市出身。
ヒストリー
1902年滋賀県生まれ。青山立愍の二男として生まれた。幼名は次郎。3歳の時に野間家の養子となった。1930年、東京帝国大学美学美術史学科を卒業。
卒業後の1931年、東京帝室博物館(のち東京国立博物館)の鑑査官補となった。
1938年、同館鑑査官に昇進。1941年より東京国立博物館美術課長。
1951年にサンフランシスコで日本古美術展(サンフランシスコ講和条約締結記念展、デ・ヤング記念博物館が開催された際にはそれに伴い渡米。
また同1951年より国立博物館普及課長、1957年より学芸部長。1969年、東京国立博物館を定年退職した。
その後も1959年より務めていた文化財専門審議会専門委員として文化財に関する保護・提言にあたると同時に、退職後は女子美術大学教授として教鞭をとった。1966年、脳軟化症のため死去。
ヒストリー
1902年滋賀県生まれ。青山立愍の二男として生まれた。幼名は次郎。3歳の時に野間家の養子となった。1930年、東京帝国大学美学美術史学科を卒業。
卒業後の1931年、東京帝室博物館(のち東京国立博物館)の鑑査官補となった。
1938年、同館鑑査官に昇進。1941年より東京国立博物館美術課長。
1951年にサンフランシスコで日本古美術展(サンフランシスコ講和条約締結記念展、デ・ヤング記念博物館が開催された際にはそれに伴い渡米。
また同1951年より国立博物館普及課長、1957年より学芸部長。1969年、東京国立博物館を定年退職した。
その後も1959年より務めていた文化財専門審議会専門委員として文化財に関する保護・提言にあたると同時に、退職後は女子美術大学教授として教鞭をとった。1966年、脳軟化症のため死去。
明治期、最後の当主だった「清六」は、書画を愛好し玄人はだしであり、商売への興味が薄れ、明治23年には店を自ら廃業した。
その後は、小西吉太郎(近江八幡の金田村浅小井)が継承したそうで、日清戦争の頃に「日本誉」という酒を販売した折り、時勢と合致し大きく売上を伸ばしたと伝えられている。「日本誉」というお酒は、この小西が店を引き継いでいた頃の話だろうか。
この後の、清六氏が国立博物館の館長として、日本の芸術に貢献した。
広大な近江八幡の「野間清六本家」は往時を偲ばせる。 明治初期に増築されたところには茶室があり、庭には豪華な石灯篭が多数おかれている。
この野間家の屋敷は、近江八幡市永原町上12に現存し、本家はNPOの事務局として、分家はボーダレスアートのミュージアムとして用いられている。