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【滋賀・近江の先人第219回】近江商人ツカモトコーポレーションの中興の祖・塚本 定右衛門 (2代)定次(東近江市)

 塚本 定右衛門 (2代)(つかもと さだえもん (にだい)、文政9年12月2日(1826年12月30日) - 明治38年(1905年)2月13日)は、江戸時代後期から明治時代の近江商人。塚本定次(つかもと さだじ)とも言う。総合繊維商社ツカモトコーポレーションの基盤を作り、勝海舟からは大人物と激賞された。

↑写真:慶応大学通信教育課程HPより>

ヒストリー
2代塚本定右衛門定次は、文政9年12月2日(1826年12月30日)に近江神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代定右衛門の長男として誕生した。
幼名は与吉、諱は定次と称した。嘉永4年(1851年)に父が隠居し家督を継いだ。
定右衛門定次は、木綿・呉服店として「多利僅商」から「薄利広商」に運営方針を変換し、
明治5年(1872年)東京市日本橋伊勢町に店を出し、
明治18年(1885年)に隠居した。
塚本家はその後、明治29年(1896年)に小樽店を開き、
明治22年(1889年)には「塚本商社」、
明治26年(1893年)「塚本合名会社」を組織し近代経営に大きく舵をきった。
定右衛門定次は明治38年(1905年)に死去したが、経営の近代化はその後も着実に行われ、
大正7年(1918年)塚本同族合名会社、
大正9年(1920年)株式会社塚本商店へと改組されていった。

エピソード
勝海舟は、その著「氷川清話」の中で2代目定右衛門定次について語っている。
 「安政5年(1858年)の飢饉の時には蓄財を村の貧しい人々に放出し、自分の土地に桜や楓を植え貧しい人が花見ができるようにした。また、砂防工事や山林工事を行い、学校も作った」と言う話を紹介した上で、「なかなか大きな考えではないか。
 この様な人が、今日の世の中に幾人いるだろうか。日本人ももう少し公共心というものを養成しなければ、東洋の英国だなどと気取ったところでその実はなかなかみることはできまい」と、定次のことを特別な人物と賞賛した。

 塚本定次こと2代目塚本定右衛門は、江戸時代から明治初期にかけて、日本全国で活躍した近江商人(近世から明治にかけて主として現代の商社機能といえる「諸国産物廻し」をして活躍した滋賀県の湖東中心の商人群)の代表的な1人である。幕末から明治の激動期の中で事業を発展させた。

〇操業甚だ難し守成又易からず

『貞観政要』(唐の太宗と群臣との政治の得失に関する問答を集録した書)を引例にした福澤諭吉先生の塚本家法への意見の返書である。
営業は信用を重んじ、確実を旨とし、時勢の変遷、理財の得失を計り弛緩することあるべしと雖も苟も浮利に趨す軽進せず・・と三ヶ条に渉り塚本家々法を述べ、日付は明治28年11月20日となっている。

 二人の出会いについて、先生からの来翰の一部をまとめた巻子「雪池福沢先生書翰」の緒には、「初めて先生にお目見得する。先生44才定次56才」と記している。
その後は終生福沢諭吉から知遇を享けたものと考えられ、一方、先生も近江商人の思考、又、定次の人となりに興味を抱かれたようである。

 書翰に付された最晩年の写真(明治33年)には、自署があり、本文は飯田三次代筆となっている。更に定次の添書に「先生絶筆なり翌とし2月にご病死御年68才」と記している。これを見ると幾星霜四分の一世紀の交わりであったことが考えられる。
この巻子を辿ると、先生の様々なお心づかいが感じられる。例えばその1つは、定次嫡子定治郎(三代目定右衛門)が一族の若者と福沢邸を訪れた際に、「子息定治郎君は怜悧と思われるが華奢な体と見受ける。これで泥棒などの災難に防ぐことは出来ぬ。幸いこちらは剣道なども盛んであり稽古に通われたら如何と・・」と述べている。誠に文武両道の先生の面目躍如と拝せられる。

 又、定次の妹「塚本さと」は、夫を支え塚本一族の陰の中心となっていたが、77才になった折に自分の経験を踏まえ、商人の妻に教育は必要とて学校(淡海女子実務学校)を女子教育の先駆者、下田歌子、嘉悦孝子など多くの人の支援をうけて創立した。
さと自身は13才まで寺子屋で学んだが、以降は独学で数多くの書を読んでいる。その中には先生の「世界国づくし」もあった。新しい文明の息吹を感じたことであろうか。

 このように塚本一族は、定次から、また折には福沢先生の謦咳に接する機会を得ることで新時代を知ったことが、今日迄事業の発展継承に繋がったことと確信する。それは数多くの残された資料がそれを物語っている。
又、定次に限らず近江商人は少なからず感化を享けたものと思われる。慶應義塾大学部創立に際しては、定次を始め塚本一族と共に、多くの近江出身の実業家が基本金を拠出した。

〇終に福沢諭吉が定次に与えた辞
「積財如上山散財如下山熱界人多少誰能上下山」
「天下布武」を唱えた織田信長の築いた安土城跡を隣に、佐々木六角の繖城(きぬがさじょう=観音寺城)の麓に塚本定次は眠っている。近江商人のアイデンティティの三方よしの心を常に抱いて。

淡海女子実務学校・・・大正8年(1919年)に滋賀県五個荘に近江商人の妻の教育機関として創設、初代塚本さと(定次の妹)、2代目下田歌子校長である。

参考文献
西川俊作「近江商人と福澤諭吉」『三田評論』1994年8・9月号/山根秋乃「聚心庵の福澤資料」『福澤手帖』83号、1994年/西川俊作・山根秋乃「塚本定次-転換期の近江商人」『近代日本研究』12、1996年/塚本源三郎「紅屋三翁二媼」

<慶応大学通信教育課程HPより>

【滋賀・近江の先人第11回】小町紅の行商から甲府を拠点に身を興す塚本家本家・塚本定右衛門(東近江市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/b7439863f15331229c778075c3d366d5
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