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【滋賀・近江の先人第211回】浅井長政の母/浅井3姉妹の祖母・小野(井口殿)(長浜市)

小野殿(おのどの)・井口殿 、(1527年(大永7年)? - 1573年(天正元年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。近江国の戦国大名浅井久政の正室。浅井長政、京極マリアを生んだ。名は阿古といい、「阿古御料」とも称された。

生涯
近江国の豪族(伊香郡井口(現・滋賀県長浜市高月町井口)の土豪)の井口経元の子として誕生。井口氏は、富永庄総政所を主宰する荘官であり、高時川右岸を灌漑する伊香郡用水を管理していた「井頼り」でもあった。

天文期、近江国の浅井亮政の子・浅井久政に嫁いだ。なおこれは、高時川の用水をめぐり各岸を代表する浅井氏(左岸の代表者)と井口氏(右岸の代表者)の融和を目的とした婚姻でもあり、これにより浅井氏領国の不安定要素を取り除くことに成功し、浅井氏の最大の経済基盤であった小谷城下の生産を安定させている。

1544年(天文13年)頃、家督を継いだ夫・久政が六角氏に臣従すると、17歳で天文14年から天文22年まで近江守護佐々木・六角氏の人質として観音寺城(近江八幡市)で過ごした
1545年(天文14年)には観音寺城で子の浅井長政を生んだ

その後、子の浅井長政が家督を継承し、六角氏から独立して戦国大名として勢力を拡大させるが、婚姻関係にあった織田信長と対立し、姉川の合戦で敗れ、小谷城落城、長政は自害し浅井氏は滅亡した。浅井3姉妹は生かされたが長男万福丸は関ヶ原で処刑された。

1573年(天正元年)9月19日、小野殿は織田によって捕えられ、関ヶ原で十指を数日の間にじわじわと切断され、死亡したといわれる。(『嶋記録』)この時、娘で京極高次の妻京極マリアは近江国坂田郡柏原にいたが高次は織田軍の軍門に下っておりどうすることも出来なかった。マリアは柏原と関ヶ原は近いこともあり母の最後を見たのではないかと言われる。

<Wikipedia引用>

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