3代目塚本喜左衛門了観(嘉永2年-大正10年)(1849年-1921年)、近江国神崎郡金堂村(東近江市)出身の染呉服商。近江商人。現ツカキ(塚喜)グループの創業者。
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3代目「塚本喜左衛門」了観は塚本喜左衛門の分家、塚本惣介の二男として生まれた。
その後、先代塚本喜左衛門の養子となる。
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3代目「塚本喜左衛門」了観は塚本喜左衛門の分家、塚本惣介の二男として生まれた。
その後、先代塚本喜左衛門の養子となる。
12歳の時、神崎郡北町屋村の「加治源一郎家」の丁稚となり京都店で見習いを始め、天秤棒を担いで北陸、関東方面の各地へ呉服の持ち下がり商いをした。誠実に働き功績を主家から認められ、別家を許されて独立した。
独立後も主家との約束を守り関東呉服の持ち下がり専業で行商ったが明治期になり汽車の発達により、これまでの商法に見切りを付け京都で染呉服商店舗を設けた。
その後、店舗は新築、移転、増築をし、業務拡大するなどいつしか当時の老舗店舗と肩を並べる商家となった。
その間、明治40年(1907年)2年間、郷里の金堂村村長を勤めた。
独立後も主家との約束を守り関東呉服の持ち下がり専業で行商ったが明治期になり汽車の発達により、これまでの商法に見切りを付け京都で染呉服商店舗を設けた。
その後、店舗は新築、移転、増築をし、業務拡大するなどいつしか当時の老舗店舗と肩を並べる商家となった。
その間、明治40年(1907年)2年間、郷里の金堂村村長を勤めた。
1914年には宮内庁御用達となった。
塚本喜左衛門家には代々「積善家必有余慶(せきぜんのいえにかならずよけいあり)」との家訓が言い伝えられている。中国の儒教の経典「易経」にある言葉で「善行を続ければ必ず子孫に良いことがある」との意味があり、事業永続への願いも込められている。
現在も「塚本喜左衛門家」には「積善之家必有余慶」の肩額がかけられ、創業者の思いが今も受け継がれている。
また、子孫を思いやる大切さを強調する一方で、子孫たちには先代の残した信用や財産に甘えぬよう、厳しく戒める絵も残されている。
塚本家に伝わる「長者三代鑑(かがみ)」。
下段は燃料を作るため墨の粉をかき集める創業者、中段は茶の湯に興じる道楽な二代目、上段は二代目の道楽によって落ちぶれ、粗末な格好をして犬に追われる三代目が描かれている。
描かれた年代は不明だが、創業者の苦労を忘れぬよう、子どもにも分かりやすく表現している。
隠居後、「陰徳を積む」を心がけ、居宅を村に寄付したり、正月には困窮した家の戸口に、気づかれないように米や金を入れた袋を置いてくるのが丁稚の仕事だったという。
尚、現在は、塚本喜左衛門(6代)(つかもと きざえもん、1948年12月16日 - )が6代目を継いでいる。
きもの、宝石、毛皮、補正下着の製造卸、ウエディング衣裳のレンタル、不動産のリーシングを行うツカキグループのオーナーであり、塚喜商事株式会社の代表取締役社長を務める。
<”東近江の商人群像より”引用>