私もナンの因果かわかりませんが、気が付いたら数字や言語といったモノにドップリと浸かってしまっていました。 お陰様で、その奥の深さ、面白さから他のモノにすっかり興味が失せてしまいました。 今は没頭しています。
【ひふみ神示 〔星座之巻・第十八帖〕】
天人が人民に語る時は、人民の中に来て、その人民のもつ言語で語り文字を使うのであるぞ、自分と自分と語る如くなるのであるぞ、天人同志の文字は数字が多いぞ。 夜明け前になると霊がかりがウヨウヨ、勝手放題にまぜくり返すなれど、それもしばらくの狂言。
【ひふみ神示 〔二日んの巻・第十三帖〕】
霊界の文字は、主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。 直線的なものは、月の霊人が用い、曲線的な文字は、太陽の霊人が使用している。 但し、高度の霊人となれば文字はない。 ただ文字の元をなすゝと○と+があるのみ。 また高度の霊界人の文字として、殆んど数字のみが使用されている場合もある。 数字は他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。 しかしこれは不変のものではなく、地上人に近づくに従って漸次変化し、地上人の文字に似てくるのである。
と、冒頭からひふみ神示を抜粋させてもらいましたが、第十三帖にもあるように数字(数霊)というのは霊性が上がると、言語よりも寧ろ多くの神意を伝えられるようで、ここに数秘学や姓名学の役割というか、意味の一端を垣間見る気がします。
そして、“偶然は必然” ではないのでしょうが、私の主要な研究題材であるケイシー・リーディングや大森先生の正食医学、ひふみ神示等も、この数字と言語(言霊)といったものをかなり重要視していますが、もちろん洋の東西が極端に開いてゆえ、同じ数字でもそれぞれ多少異なる見解はあるのですが、前回までのアップでお伝えしましたように時には驚くような一致も見られます。
そう、最近、ナンとなく気が付くようになったのですが、ひふみ神示こそがこの洋の極端に離れた運命学であるケイシー・リーディングと大森先生の姓名学をつなぐ架け橋となってくれているのを感じるようになりました。
昔だったら片方を研究していても気が付かなかったことでも、今はかなりの事に “ピン!” と直感が働き、その共通性をお伝え出来るようになりました。
ここで、またもや直感からいくつか言語と波動についてひふみ神示よりアップしてみたいと思います。
【ひふみ神示 〔星座之巻・第十九帖〕】
人民もの言わなくなると申してあろうが、ものが今迄のようにものを言わなくなり、マコトの世となるぞ、天人の言葉はマコトであるから、只一言で万語を伝え得るぞ。 言葉の生命は愛であり、真であるか、真愛から発しない言葉はマコトの言葉でないぞ。 子音と母音と組み組みて父音の気を入れて始めて言葉となるのぢや、今の人民の言葉ではないぞ、日本の古(光)語がマコトの言葉ぞ、言霊ぞ、数霊と倶に弥栄ゆく仕組。
【ひふみ神示 〔星座之巻・第二十一帖〕】
言葉は生れ出るものぢや、先ず言葉され、歌となり、文章となり、又絵画となり、彫刻となり、建築となり、又音楽となり、舞踊となり、あらゆる芸術の元となるのであるぞ。 神に通ずればこそ、愛であり、真であり、善であり、美であり、喜びであるぞ、喜びなきものは芸術でないぞ。 今の芸術は死の芸術、魔の芸術。
といった、感じで聖書同様、言葉(言霊)の重要性が帖の各所に見られます。
星座之巻・第十九帖には、日本語の独自性が述べられていますが、それは本当の日本に古来より伝わる言霊学のことであって、現在の私たちの物質性が強い日本語ではないようです。 まーいちおーその片鱗だけは残っているようですが。
で、次のアップで、一つ興味深い帖を採り上げてケイシー・リーディングと聖書との関連性を検証してみたいと思います。
続く…