今日、私がひふみ神示を気の向くままにパラパラとめくっていて、ある瞬間、私の直感に “ピン” と引っ掛かった帖があったのです。 それは、次の帖です。
【ひふみ神示 〔星座之巻・第十五帖〕】
十二人が一人欠けて十一人となるぞ、その守護神加へて二十二柱、二十二が富士ぢや、真理ぢや、又三であるぞ、今迄は四本指八本指で物事をはかつて誤りなかったのであるが、岩戸が明けたから親指が現れて五本十本となったのぢや、このことよくわきまえよ。
一般の方でしたら、「それがどうしたの?」 と思われるかも知れませんが、ケイシー・リーディングやら聖書やら、姓名学やらを調べている私には、いくつも直感に引っ掛かるポイントとなる数字が沢山あるのです。
まず、最初に “十二・12・Twelve” ですが、こちらは東洋の数秘学ではそこまで出てきませんが、カバラをベースとした精養軒(おがっち注:変換したらコレが最初に出て来たので残しときます)…じゃなくって、西洋圏では、一年の12ヶ月や黄道十二宮、イエス十二使徒、イスラエルの十二氏族、等など聖書を読んでいるとかなり頻繁に目に付く数字でもあります。
まー、ナゼだろうか?という事に関しする推測は、今回は置いときまして、とにかく創造の進化の過程に於いて何か重要な意味をもつ数字なのでしょう。 いちおう、参考までにケイシーのリーディングより抜粋しますと、
【原文より. 12】TWELVE as a FINISHED product, as is given in all forces in nature; as was given in all forces as combined to those of the ritualistic forms, those of the mystic forces, those of the numbers as related to those of a combination; for as of the voices of TWELVE requiring Twenty to even drown same, or to overcome same. The same as may be seen in all of the forces in nature. TWELVE combined forces brought those strengths into the world as of [were] necessary for a replenishing of same.
【12】:完了した数であり、自然界のあらゆる力に見られ、儀式形態、神秘的力と結び合わされた全ての力の中に見られる数である。 12人の声は20人の声をかき消し、それに打ち勝つ。 それと同じことが自然界の力の全ての中に見られる。 12の結合された力が、世界にそれ自身を甦らせるに必要な力を与えたのだ。(訳注:イエス12使徒のことを指すと解釈される)
このケイシー・リーディングでの説明では恐らく一般の方には “???” といった感じでしょうが、私もこれを噛み砕くいて説明するのはケイシーリーディングの本質から外れるような気がしますので、とりあえず何か神秘的な要素が隠されているんだぐらいに認識しておいて下さい。
さて、次からはいよいよ私の推測の領域に入ってゆきます。 そのおつもりでお読みください。
ひふみ神示の 『十二人が一人欠けて十一人となるぞ』 の部分ですが、どうもイエス十二使徒の一人であったイスカリオテのユダの脱落を意味しているような気がするのですが、拙ブログをご覧の皆様はどう思われますか?
そうそう、この事に関してですが結構興味深い面白いネタがあります。 それは当時、本当かウソかは私にも判りませんが、ケイシーのもとに昔、イスカリオテのユダだったという人物がリーディングを受けに来たようなのです。 そして、その際に取られたリーディングより、あの最後の晩餐でキリストを裏切ったユダの意味というか役割について記したものを、光田秀さん訳 「キリストの秘密」 よりお借りして抜粋してみたいと思います。
(Q27):イエスを裏切ったイスカリオテのユダの意図は、イエスにイエス自身を王として宣言させ、主の王国をもたらせようとすることであったのでしょうか?
(A27):むしろその男の望みはそれを強要すること、またあの晩餐でイエスが語ったことを成就させることであった。
と、リーディングから一部抜粋した質疑応答ですが、哲学的で簡潔な答えでなかなか上手く咀嚼できませんが、参考までにその当時の状況を述べておきますと、ユダは単独で行動していたのではなく、ユダの周りには、彼がイエスに求めていたある活動計画を支援するかなりの数がいたらしいです。
リーディングによると、「これらのグループは、ローマからの束縛と課税から民衆を解放する者として、イエスを主導者に祭り上げようとしていた」(R1179-7)らしいです。 この時点でのイエスは 「その当時のユダの周りにいた人々を叱りつけた」 とリーディングでは述べられています。
そして、当時ある宗教団体があり、そこの人達は、ユダが将来自分の主人を裏切り、また他の罪をも犯すだろうと預言していたようです。 それゆえ、他の人々から 「主、教師として宣言される人」 がユダを受け入れた時には、かなりの人々が特別な関心をもった、と述べられています。
単純に善悪二元論で判断ができない、この歴史に残る有名な一幕ですが、皆さんはどう判断されるでしょうか?
歴史とは常に時の権力者によって作り変えられるものですから、世界の歴史だけでなく、日本の歴史についても常に俯瞰、客観視する中庸性が世界を正しく導いていくような気がします。
ちょっと長くなったのでこの辺で一区切りしまして、次に続き…ます。