ユダヤ教パリサイ派の人たちが陥った罠とは
彼らの信仰深さゆえの真面目さでありました。
彼らはこう考えました。
我らのユダヤ民族は、
古来からヤハウェと共にいた神との契約の民族でした。
にも関わらずイスラエル王国の滅亡にいたり、
民族はとらえられたりバラバラになってしまいました。
これは我らの預言者を通して得られた戒律を守らなかったからです。
ですから我々ユダヤ民族が生き延び繁栄し、
再びヤハウェの元に戻るためには、
戒律は厳重に守らなければなりません。
特にゾロアスター教との邂逅で開示された真実。
神と悪魔との闘い。
悪魔と戦ってヤハウェの天国に参るためには、
厳格に戒律を守らなければならない。
そのパリサイ派の「硬さ」に知恵深き悪魔がつけこみました。
自らの魂の神性を維持するために、自らを律することは重要です。
しかし他人を律することはとても難しいです。
ほんの隙間でも悪魔が入り込みやすいからです。
他人を支配することは自我欲では快感です。
まして神の名の元に他人を縛ることはとてつもない快感です。
誰も自分にさからえません。自分が他人を支配できます。
この戒律による支配欲に悪魔がつけこみました。
たとえば私たちのまわりでも、
人を「規則でしょ」や「常識でしょ」で、縛るのが好きな人はいます。
彼らは他人のため、社会のため、と思っておりますが、
それにかこつけて他人を縛ったりいうことをきかせるのが好きなだけ。
ということも多々あります。
ではその境界はどこにあるのでしょうか。
それは「柔らかさ」です。
もし他人のため、社会のためという動機であるならば
その人の空気には「柔らかさ」が残っています。
しかし人を支配したい人には「柔らかさ」がありません。
人のため、社会のため、神のため、と名目はあったとしても
「硬さ」しかない人は、支配欲という我欲に溺れた人です。
私たちが常に気をつけなければならない点です。
◯◯さんは「硬い」人だなあ。とか、
◯◯さんは、支配欲の人だなあ。など、
私たちは他人の評価は得意です。
しかし重要なのは自分が他人に今どうであるか、だけです。
自分は人に対して柔らかさを保てているでしょうか。
柔らかさ=良心 です。
さて戒律主義という悪魔の罠に陥ってしまったパリサイ派から
「柔らかさ」のメッセンジャーがあらわれました。
その人は後世、イエス・キリストと呼ばれます。
つづく
おひさま、ありがとうございます。
色々書いたけど、やっぱり恥ずかしいからやめよっ。そうだそうだ、支配欲は良くないっ。所有しようとしてはいけない。野に咲く花は、摘もうとせずに、そのまま見せて頂くだけが自然に優しく、花も寿命をまっとうできる。しかし人間には足がある、どこにでも歩いてゆける。足のある花は、自分の好きな所、安心できる人の所へ行けばいい。見せて頂いて、ありがとうございます。
しかし、全人類の置かれた全ての環境への思い遣りと配慮には至りませんね。特にそれは日本の人々には根深いです。まるぞうさん?日本国土の母性が、他国では悪魔ですよね。日本国土が神国であると固く閉ざして信じる人々とは、全人類、他国、他人を思い遣ることからは寧ろ遠いですね。しかし、与える行為に喜びを自覚する母性の包みこむ円い心境です。牛に代表されるエレメントのインドでは、線の流れです。そしてユダヤの人々とは、一点であります。まだまだ、全人類、全地球への、全てとつながる世界への心境と視点と一点へと、統合された心の霊性を発見する段階ですから、全てにつながる世界への思い遣りに目覚めれば、良心も、全地球全人類へと届きますね。まるぞうさん?笑うしかないですが、日本国土の包みこむ母性とは、ある国ではなんでも欲しがり、呑み込むオロチだと認識し、調伏とドラゴン退治の対象です。
まだまだ、全体と、それぞれの霊性への役割と分担のかみ合わせ、連結器は未発達ですね。それゆえに真の柔らかさとは、全てのつながりに生かされている事実上と、物ことを受け入れません。そのような訳と結果、から神と神々と悪魔とゆう物質世界ならではの化学反応と演技に翻弄されますね。
それを私は、
あなたがそう思うなら、そうなのでしょう?
と呼んでいます。
思考をすべて払拭し、洗い流し、良心の鏡の中に溶け込んでその先には進めません。
肉体に反応する思いの反射と対話のみ、つまり独り言のみで死後も、そのようなヴルドーの段階ですからね。まだまだ、自分の思考から自滅する段階ですから、柔軟性のある、弾性のある段階の思い遣りとは真逆正反対を向いてます。死後も、無思考から良心とつがりのみに入れば、思考とゆう物質の癖のある反射と反応の全ては停止しますよ。