歴史の現場、殊の外古戦場を自身の目で見てみるというのは面白いですね。
歴史の現場って、岡山には児島湖に注ぐ笹ケ瀬川があります。
洗濯してたらどんぶらこっこ、どんぶらこ・・と桃が流れてきた・・・この川がそのモチーフのようです。
きっともも族の戦士がいぬ族、さる族、きじ族を従えておに族を討ったんでしょう。
笹ケ瀬川を遡上すると支流の合流があります。
その支流が足守川。
高松城近辺を流れる川です。
この辺から知ったか。
織田勢は多方面作戦を展開していました。天下布武を標榜する身からは当然?
西を向いては方面軍司令官秀吉、対するは中国の雄毛利氏。
播磨から但馬にかけては両者の緩衝地帯になっていたようです。
そこを越えて秀吉が攻めかかります。
吉備には国境警備城の性格で七城があり、清水宗治の拠る高松城が主城だそうです。
秀吉流は火花散る大きな戦闘をしないんですね。囲み・・兵糧攻めです。
ここまで三木では干殺し、鳥取では渇殺しという凄まじい攻囲戦を行っています。
陥落、開城後には飢餓籠城者に粥を施しています。
食べた者はバタバタと死にます。毒ではありません。
リフィーディング症候群という症状だそうです。
三木は擁護できるかも・・ そうなると思ってもみなかった・・ということであれば・・・
三木を知りながら鳥取も・・優しい顔で・・・ 秀吉は人気の一方、かなり残忍と言われます。
そして今度の攻囲戦は水。
堤を築き、足守川の水を引き込んで高松城を浮城にしてしまいます。
水・・湿地こそが城の備えだったのを逆手にとります。
これは水害を撮ったとあります。
堤はありません。 それでもこれだけの状況を呈するのです。
梅雨時に堤の威力は大きかったでしょう。
ここで展示資料から。 堤は延長3キロに及んだとされていますが、実際は300mくらいだったんじゃないか・・・
なるほど、写真とも照らしながらフムフム・・と思います。
この攻囲戦の最中に変事が伝わります。言わずと知れた本能寺の変です。
資料館の展示は毛利は変を知らず、秀吉は秘匿しながら攻囲戦を終息させたという立場をとっています。
そうかな〜?
秀吉は変黒幕説のある一人、大返しのための経路播磨は軍師勘兵衛の影響下にある地。
作為・・・
ややや・・ いい天気なのにパソコンで遊んでしまった・・・(^^;)