お寺ふぁん・続

写真撮ってきたから見て~♪ 程度の記事書いてま~す!

謹賀正月 南京町 花隈城

2018-02-17 08:13:47 | 日記

 春節 中国のお正月ですね。 日本でも田舎では旧正月を祝います・・でいいんですか? 祝っていました・・こちらの方がより正解?

 

 元町の駅。駅ですらこうですね。

 

 元町の駅でもう一箇所。花隈公園です。

 東行き電車が入ってきました。

 

 公園、その地下は駐車場として整備されていますが、その昔は花隈城がありました。

 その当時は海岸線がすぐそこだったでしょう。

 

 

 円柱形であることと文字がかすんでいて肉眼では読みづらいです。

 信長は中国攻めの準備として軍事拠点の整備を荒木村重に指示、村重は伊丹城に入り花隈城はその支城に当たります。

 他にも多くの城があったことでしょう。

 

 摂津、播磨から但馬に至る一帯は緩衝地帯となっていましたが、半島のようなDMZではありません。

 いわば ”有武装中立地帯”、群雄割拠で各武将ともどっちかと言えば毛利という危うい地域です。

 

 播磨は一旦は、織田勢により平定されます。

 しかし、三木城の別所氏が離反し、三木城攻囲戦が生起します。

 播磨が独立武将多数の状態になっているのは、室町幕府の有力者であった赤松氏が衰退、配下にあった者が独立したという結果です。

 三木の別所氏はこれらの勢力の中で最有力者、大きな影響力があります。

 

 村重も攻城側の一員として動員されますが、突如として離反、花隈城も織田方一大拠点から一転三木城補給拠点となります。

 海岸線が近い・・それは毛利からの補給を陸揚げするために是非とも必要なことでした。

 寝返りは、毛利の支援を期待したもの・・確かに兵糧の支援はありましたが、一兵の来援もありません。

 こういう城が無事なはずがありません。やるか、やられるか・・・ そういう経緯も刻んでいるんでしょう。

 結果として花隈城をはじめ村重城には悲惨な結末が待っていました。

 ただ、この時代、結末を知っているわれわれにはともあれどう動くかわからない不穏、動乱の世でした。その現地に今立っています。

 

 もうひとつ史跡碑がありました。

 戦艦大和の建艦が記載されています。 それって神戸じゃないよね・・・? 

 初代はここで建造されたようです。ネットで見たらこんな艦(↓)だったそうな・・

「戦艦大和 初代」の画像検索結果

 

 全般、石垣はモルタル打ってあるし、オリジナリティはなさそうです。

 もちろんトンガリは当時の防御施設ではなく、現代人に対する防御施設ですね。ま~いるんですね、上る人。

 

 概説です。

 さすがに昭和44年となると現状とは大きく異なります。

 JRは国鉄であって、神戸にも市電があったんですね。

 

 

 街に入ります。

 

 

 一旦離れてはらヘリですね~(^^)

 今日の中華街はいっぱいなので皮一枚離れた店にしましょう。

 なぞ肉!

 

 海鮮のバスケット。バスケットはジャガイモ。きゃべつがはみでてるようなところが”も~まんたい”ですね。

 

 お店のお母さんが懇切におすすめしてくれるんですけど・・よく言えば本場、なんか通じましぇん・・

 

 フォーおいし!

 

 

 

 

  にぎやか・・

 背高いな~ どこの人?

 

 

 

 

 

 

 

 シンセと二胡。二胡は表現力豊かな楽器だにゃ~

 音合わせのときはダウン着てたけど・・フィギュアみたいにうそはだかじゃないからさぶいよね~

 

 

 

 

 

 五輪ということでもないでしょうが・・

 

 

 

 

 もうこの季節です。

 ちゃっちいです。しかし、今の住宅事情からはJustFitです。

 

 帰ります。まだ実験的なんでしょうね。 ロープを使ったガードです。これで十分頼もしい!

 

 空が曇ってきました。

 花隈城、この屏風のような六甲を越えて食料搬送するのも、また、これを阻むのも熾烈だったでしょうね。

 

 今日ははにゅうが勝ってはぶが負けてカーリングも激戦、”熱い”一日でした。