前穂でとった写真、とりあえず、PCの壁紙にしてみました。
壁紙にして毎日見てみると、「よくもこんな高いところに二本足で歩いて登ったものだなぁ」とそれなりに感動が…かなり遅く来た感動ですね(^^;)
前穂は不思議と感動のない山でした。
山行そのものは、今までの感動の山行との比較では、あくまで固い線というか…、初めてのアルパインクライミング的な経験と言えるツルネ東稜のような大感動でも、嵐の中を辿った裏北岳の縦走のような勉強になったなぁ!という感動でもなく、なんというかあまり目に見えた感動がない山でした。
それが自分自身でも不思議な感じで、ただ林道を2時間半ポクポクと歩いて出かけた両俣小屋よりも感動しない穂高なんて一体どーゆーこと?と自分で自分の心の動きが不思議で仕方ないのでした。
ここ2年来のMyブーム=山が終わりつつあるのではないか…とさえ一抹の不安を覚えたほどです。
山が終わってしまったら、一体私はどこに向かえばよいのでしょう!(困ります…甲府ではすることがない)
山登りは単なる趣味、ホビーですが…バレエだって単なる趣味=ホビーでありましたが、そこから得られる心の充足はとても深く…私はバレエは動的瞑想をしており、ただ健康に良いとか、チュチュが着たいとか憧れの○○…という路線ではなく、バレエでは私は着たきりすずめでしたし、ひたすら自分とバレエの対話で、自分の変わっていく体型やだんだんと分かるようになっていくバレエの哲学にすごく手ごたえを感じていました。
バレエを通して教えられたのは「自分を変えること」でした。”自分”は変わるんですよね。
むろん、その「変わる」は一回や2回のレッスンを通して分かるようなことではなく、2年とか、3年は少なくとも必要なわけですが。変わり始めると面白くて辞められないんです。
ヨガも実際のところ同じような効果があると思いますが。肉体と言うのは人間にとって一番身近な大自然なのです。
そういう意味で行くと、山という趣味は、人にとってもっとも身近な自然である肉体を利用した学びから、自然という外的対象物へ視野が広がる経験でした。
どちらにしても、神と対話しているのです。ヨガでは自分の内側を見ることを内観といいますが、バレエにしても内観力がほとんどすべてですし(というのは使う筋肉すら指定されているのがバレエだからです)、山にしても、歩いている間、対話しているのは自己です。山と対話するというのは、自己と対話するというのと一緒なんですよね。
考えてみるとヨガのアシュタンガ(八支則)の4~8を擬似体験するようなのが、山です。
4.プラナヤマ(調気法) → 登山では苦しくなるので意識的に呼吸します。特に吐く息。
5.プラティヤハーラ(制感)→ 力任せに登っては苦しくなるので、あえてゆっくり歩く。
6.ダラーナ(集中) → 歩くこと、一歩を出すこと以外考えるゆとりはないですね…(笑)
7.ディヤーナ(無心) → そうするとだんだんと無心に・・・
8.サマディ(三昧) → 山頂=擬似サマディ
とまぁこういう風な感じに八支則をミニマイズされた形で踏襲…
それは、自己との対話を肉体的にプロセスに置き換えられる、という意味で、山と言うのは希少な場なわけですね。
だからこそ、修験道の舞台ともなりえたわけでしょう。
■ 岩 = 今を生きる
前穂は岩登りの要素のある山です。で、岩と私の対話では、岩尾根に命を賭けるような価値は見出せませんでした。
ところが、岩ってのはですね…自己矛盾を抱えた存在。まるで人生の比ゆのようです。
岩場の通過では、集中力が安全の第一の担保なんですね。ロープ(保険)ではなく。
確保(安全の担保)というのはホント微妙なものです。 前穂では、確保されて歩いている女性一名とすれ違いました。
前穂くらいだと、確保と言ってもガイドさんがまるで犬のリールのようにハーネスにつないだロープを持って歩いてくれるだけです。
仮にロープにテンションが掛かったとして…支点はガイドさん(汗)ガイドさんは強いから、支点もろともがけっぷちに落下、と言うことはないだろう…とは思いますが、いくら強くてもテンションが掛かったロープの先の最低50kgはあろうという物体を落下という物理の法則から停めるのは、いや~なかなか難しい技と思います。そんなの練習もできそうにないですし。
よくある、雪山でザイルを結び合っていたために1人が落ちたら、結んでいた全員が引っ張られて落ちた、というケース…あれはホント危ない。
というわけで一番確実なのは、そもそも落ちないことです。
そうなると何が一番の安全確保になるかというと、岩登りのスキルが向上することなんですね(汗)
そこが岩を志向しないにもかかわらず、岩のスキルが必要になる理由ですね。
岩ってのは一体全体どういうスキルなのか?っていうと、絶対に落ちないというスキルなわけです。
超・集中力。
怖いという感情が沸き起こるのは、(落ちたらどうなるかを想像する)からですが、その時点で心は現在にあらず、未来を想像しています。
今に生きていない。
つまり、心配と言うのは、今に生きていない証拠、なわけですね。
恐怖、心配、不安、全部未来を心に描くことで起こります。起こってもいないことを憂いている感情です。(これは”準備段階では”大変有効な能力です)
そうすると集中力と言う点で欠けが生まれるわけで、それは心配が実現する可能性を高めます。
自分でその未来の現実を作り出してしまう。予言的未来というわけです。
なので、もっとも安全なのは、心配を辞め、今に集中することです。目の前の岩に集中。
■ アッタ
このことはとても重要なヨガの教えで、ヨガ・スートラの最初は「アッタ」という言葉だそうです。
訳すると「さて」と言うくらいの言葉ですが、深く解釈されて「今、心をこのヨガの教えを受け取ることができるよう、定めなさい」という意味に教えられています。
ヨガのレッスンで必ずプラナヤーマ(呼吸法)から始めるのは、そわそわしていたマインドをレッスンに集中させるためです。
このことは別に目新しい知識でも非論理的でもなく、たとえトレッドミルの上を走るのでも、雑誌やTVを見ながら、走るのと、ただ走ることに集中して走るのでは効果が違うということは、西洋的な合理主義の世界でも常識です。
つまり、何をやるにしても今、目の前のことに集中してやるのがベストな結果を導き出す、ということです。
そういう訳で岩登りというのは、人生において、今を生きる、という得がたいスキルを、疑似体験するという経験なのです。
集中…こそが安全。過去にも生きず、未来にも生きない。
それはヨガでも同じですが、より強制的な環境に身をおくのが岩登りですね。
だって、集中しなければ、結果がすぐ出る上深刻です。
ヨガだって集中力を養いますが、それにバレエだって…しかし岩登りほどの緊張感は強いられません。嫌になったらいつでも辞めれる。
山は…登ってしまえば、自分で降りる以外ない。岩だって途中でやめ、と思ったところで、降りるプロセスは引き受けなければなりません。
その引き受け手のなさ、自分しか面倒を見るのはいないのだ、というところが、これまた人生と似ているのです。
シュラフを干していたら2つを連結できることを発見。
壁紙にして毎日見てみると、「よくもこんな高いところに二本足で歩いて登ったものだなぁ」とそれなりに感動が…かなり遅く来た感動ですね(^^;)
前穂は不思議と感動のない山でした。
山行そのものは、今までの感動の山行との比較では、あくまで固い線というか…、初めてのアルパインクライミング的な経験と言えるツルネ東稜のような大感動でも、嵐の中を辿った裏北岳の縦走のような勉強になったなぁ!という感動でもなく、なんというかあまり目に見えた感動がない山でした。
それが自分自身でも不思議な感じで、ただ林道を2時間半ポクポクと歩いて出かけた両俣小屋よりも感動しない穂高なんて一体どーゆーこと?と自分で自分の心の動きが不思議で仕方ないのでした。
ここ2年来のMyブーム=山が終わりつつあるのではないか…とさえ一抹の不安を覚えたほどです。
山が終わってしまったら、一体私はどこに向かえばよいのでしょう!(困ります…甲府ではすることがない)
山登りは単なる趣味、ホビーですが…バレエだって単なる趣味=ホビーでありましたが、そこから得られる心の充足はとても深く…私はバレエは動的瞑想をしており、ただ健康に良いとか、チュチュが着たいとか憧れの○○…という路線ではなく、バレエでは私は着たきりすずめでしたし、ひたすら自分とバレエの対話で、自分の変わっていく体型やだんだんと分かるようになっていくバレエの哲学にすごく手ごたえを感じていました。
バレエを通して教えられたのは「自分を変えること」でした。”自分”は変わるんですよね。
むろん、その「変わる」は一回や2回のレッスンを通して分かるようなことではなく、2年とか、3年は少なくとも必要なわけですが。変わり始めると面白くて辞められないんです。
ヨガも実際のところ同じような効果があると思いますが。肉体と言うのは人間にとって一番身近な大自然なのです。
そういう意味で行くと、山という趣味は、人にとってもっとも身近な自然である肉体を利用した学びから、自然という外的対象物へ視野が広がる経験でした。
どちらにしても、神と対話しているのです。ヨガでは自分の内側を見ることを内観といいますが、バレエにしても内観力がほとんどすべてですし(というのは使う筋肉すら指定されているのがバレエだからです)、山にしても、歩いている間、対話しているのは自己です。山と対話するというのは、自己と対話するというのと一緒なんですよね。
考えてみるとヨガのアシュタンガ(八支則)の4~8を擬似体験するようなのが、山です。
4.プラナヤマ(調気法) → 登山では苦しくなるので意識的に呼吸します。特に吐く息。
5.プラティヤハーラ(制感)→ 力任せに登っては苦しくなるので、あえてゆっくり歩く。
6.ダラーナ(集中) → 歩くこと、一歩を出すこと以外考えるゆとりはないですね…(笑)
7.ディヤーナ(無心) → そうするとだんだんと無心に・・・
8.サマディ(三昧) → 山頂=擬似サマディ
とまぁこういう風な感じに八支則をミニマイズされた形で踏襲…
それは、自己との対話を肉体的にプロセスに置き換えられる、という意味で、山と言うのは希少な場なわけですね。
だからこそ、修験道の舞台ともなりえたわけでしょう。
■ 岩 = 今を生きる
前穂は岩登りの要素のある山です。で、岩と私の対話では、岩尾根に命を賭けるような価値は見出せませんでした。
ところが、岩ってのはですね…自己矛盾を抱えた存在。まるで人生の比ゆのようです。
岩場の通過では、集中力が安全の第一の担保なんですね。ロープ(保険)ではなく。
確保(安全の担保)というのはホント微妙なものです。 前穂では、確保されて歩いている女性一名とすれ違いました。
前穂くらいだと、確保と言ってもガイドさんがまるで犬のリールのようにハーネスにつないだロープを持って歩いてくれるだけです。
仮にロープにテンションが掛かったとして…支点はガイドさん(汗)ガイドさんは強いから、支点もろともがけっぷちに落下、と言うことはないだろう…とは思いますが、いくら強くてもテンションが掛かったロープの先の最低50kgはあろうという物体を落下という物理の法則から停めるのは、いや~なかなか難しい技と思います。そんなの練習もできそうにないですし。
よくある、雪山でザイルを結び合っていたために1人が落ちたら、結んでいた全員が引っ張られて落ちた、というケース…あれはホント危ない。
というわけで一番確実なのは、そもそも落ちないことです。
そうなると何が一番の安全確保になるかというと、岩登りのスキルが向上することなんですね(汗)
そこが岩を志向しないにもかかわらず、岩のスキルが必要になる理由ですね。
岩ってのは一体全体どういうスキルなのか?っていうと、絶対に落ちないというスキルなわけです。
超・集中力。
怖いという感情が沸き起こるのは、(落ちたらどうなるかを想像する)からですが、その時点で心は現在にあらず、未来を想像しています。
今に生きていない。
つまり、心配と言うのは、今に生きていない証拠、なわけですね。
恐怖、心配、不安、全部未来を心に描くことで起こります。起こってもいないことを憂いている感情です。(これは”準備段階では”大変有効な能力です)
そうすると集中力と言う点で欠けが生まれるわけで、それは心配が実現する可能性を高めます。
自分でその未来の現実を作り出してしまう。予言的未来というわけです。
なので、もっとも安全なのは、心配を辞め、今に集中することです。目の前の岩に集中。
■ アッタ
このことはとても重要なヨガの教えで、ヨガ・スートラの最初は「アッタ」という言葉だそうです。
訳すると「さて」と言うくらいの言葉ですが、深く解釈されて「今、心をこのヨガの教えを受け取ることができるよう、定めなさい」という意味に教えられています。
ヨガのレッスンで必ずプラナヤーマ(呼吸法)から始めるのは、そわそわしていたマインドをレッスンに集中させるためです。
このことは別に目新しい知識でも非論理的でもなく、たとえトレッドミルの上を走るのでも、雑誌やTVを見ながら、走るのと、ただ走ることに集中して走るのでは効果が違うということは、西洋的な合理主義の世界でも常識です。
つまり、何をやるにしても今、目の前のことに集中してやるのがベストな結果を導き出す、ということです。
そういう訳で岩登りというのは、人生において、今を生きる、という得がたいスキルを、疑似体験するという経験なのです。
集中…こそが安全。過去にも生きず、未来にも生きない。
それはヨガでも同じですが、より強制的な環境に身をおくのが岩登りですね。
だって、集中しなければ、結果がすぐ出る上深刻です。
ヨガだって集中力を養いますが、それにバレエだって…しかし岩登りほどの緊張感は強いられません。嫌になったらいつでも辞めれる。
山は…登ってしまえば、自分で降りる以外ない。岩だって途中でやめ、と思ったところで、降りるプロセスは引き受けなければなりません。
その引き受け手のなさ、自分しか面倒を見るのはいないのだ、というところが、これまた人生と似ているのです。
