日本的閉塞感には休養?英語公用語論

2011-03-03 10:23:35 | Diary
昨日は非常に内容の深いコメントを頂いたので英語をめぐる現状について考えてみたいと思います。

■ 英語が無用の長物と化している現状

日本では英語力は要りません。それが、日本人が使う目的で英語をマスターできない理由。

しかし、世界を見渡せば、日本人の英語力は中国どころか、韓国にも抜かれ、悲しいさまになっています・・・。世界中で英語が一番できないのが日本人なんですよね。

友人のデイビッドは英語を大学で教えているのですが、日本人は悲しきかな最下位だそうです。

6年も勉強してメカニカル英語しかやらないからですね。時間の無駄だなぁ。6年間英語だけ勉強しているわけではないでしょうから、凝縮すると3ヶ月相当の時間が英語に当てられたと想定して、その期間海外留学したほうが確実に英語力はつきます。
(その結果受験英語力は付かないかもしれません…笑)

■ アルファベット=思考停止

一方、母国語が同じ人同志が、第二外国語で話すのは少々変です。 いや外国ではありますけど・・・というのは日本語と英語はかけ離れているので切り替えがめんどくさく、海外で日本人とあったときにはずっとそのまんま英語のほうがお互いに楽だったりします。

でも日本国内で日本人しかいない会議で英語ってヘン。 確実にヘン。非効率だし。

でも・・・最近英語の翻訳を請け負ったのですが、どーみても用途に適さない文書で・・・多分、パラパラと目を通すということさえせずに翻訳に回ってきたよう・・・役に立たないだろうなぁと思いながら訳すのは少々苦行でした。 パラパラと目に通すくらいすれば、その文書がいかに無駄な情報か分かります。
それもしないのは、多分・・・英語ってだけで思考停止になったんだろう。

問題は英語を話せって部分ではなく、アルファベットの羅列を見たら思考停止する癖ではないでしょうかね?

英語ができないというより、”英語アレルギー”。 

通訳をしていると、日本の方は訳を聞いているうちに思考停止に陥ります。訳と言うのはどうしても元の言語にひっぱられますからちょっと分かりにくい。自然な日本語じゃない。すると・・・
最終的には、アイコンのような図柄さえも、説明されなければ分からなくなるらしく、絵をみて訳して、とおっしゃいます(汗) え?絵なんですけど・・・ 

英字新聞。もう英語がダーッと書いてある時点でいや!でしょう?それがね~アレは見るものなんです。まずジーッと見る。大きい文字、小さい文字、写真・・・見て見えたところから”類推”する。

だから社会人になってからは、文系より、理系の人が英語力は伸びやすいのではないかと思います。
私はメーカーにいたのですが、そもそも理系ってカタカナのオンパレードだし、英語って言っても文ではなく単語。
じーっと見ていてることで読めなくても解決可能。 

■ 話せたらモット楽しい 

一方日本の社会が大好き!日本が一番!そんな方もいます。私も実は日本は天国だなぁなんて思います。

で、英語が話せなくても生きていける?

そういう人を見ていると、話さなくても生きていけるのではなく、話さないでいいように生きているんだな。

実はわたしは街角でちょろ~と英語を話す外国人とつい友達になってしまうのですが、彼らは私と話しているときはずっと英語・・・(汗) 

ちょっと温泉いくだけでも、韓国人の女性が、そわそわしていたので英語で話しかけたらホッとした顔でしたし、ロープウェーの足湯ではオーストラリア人夫婦と世間話。その方たちからみれば、私は砂漠のオアシスみたいでしょう。

農業をやっている友人は、英語教育については「英語教育してもらっても使い道ないし・・・」という。けれど、こないだ一緒に味噌を作ったとき、デイビッドは彼とは日本語で話ししていたんですよね(汗)

ってワケで、どーも、”英語が話せなくても生きていけるもん!説”(笑)は、少々負け惜しみスパイス味。
嫉妬というゴマ、あるいは恥ずかしがりの強がりと言う隠し味が、現状否定あるいは思考停止というベースに載ったお料理のようです。日本人が自ら作り上げている殻。現実と言う名の強固な信念に守られた虚構です。 

パンもお米も食べられる環境で、パンしか食べない人が、パンだけで生きていける!と言っているのと同じで、生きていけるっていうより、それしか選んでいないだけみたいなのです。

選べないから、とは言わない。選んでいない。能力の問題ではなく、意思の問題。

それを指摘すると今度はいこじになって、パンがすきなんだ!と言い出します(笑)

余談ですが、それって英語だけでなくインターネットの利用についての反応とも似ています・・・嫌いでも羨ましい。

最近ネットで受験問題が流出するのがありましたが、受験そのものが意味を成していないタダの通過儀礼となって何十年も放置しておいて、カンニングの何をそう騒いでいるのでしょう? 試験=無駄な儀礼である伝統の長い中国なんか、カンニングだって伝統の技(笑)。それより、カンニングなんかで解けない実力志向の問題を作ればいいだけじゃないの?

元に戻りましょう・・・ですから、思うに、そういう人たちに「英語って選択肢もありますよ~」とかいうのは野暮です。

知っているのです、けれど、(本心は選びたいけど、選びたくない)みたいなヘンなところに心がロックされてしまっている。

なんだか思うんですけどね、(本心は成人した孫や子供と一緒に住んでもらいたいけど、そういいたくない、言いたくないのに分かって欲しい)という”甘え”というメンタリティと似ていませんかね?

誰かがほうらおいしいパンですよ~さぁ食べてみたらアナタもステキになれますよ~ほうらカンタン~と、自分の食べやすいように環境を変えてくれて、誰かが自分を変えてくれるのを待っている?のかどうか分かりませんが、依存症なのは確かです。

もっとシンプルになれないのかしら???

■ 学歴というのは気分の問題だったのだ

教育と言うものは、すべからく、なんらかの目的の手段として考えるべきではないのかもしれません。

大学に行くのが就職のためなのだったら、中卒で職人の道に入り、人にはできない素晴らしい仕事をして高給取りになっている人なんて世の中たくさんいます。 周囲をちょっと見渡せば、収入と学歴の相関関係がほとんどないことは明らかです。

大学院までいってポスドクは余りで年収300万もままならない時代。学歴超デフレ時代です。
それが問題だ問題だと騒がれますが、別に問題ではないのです。学歴が高い人が高収入であるべきって誰が決めたんですか?っていうと誰も決めていない。 
東大まで行って男芸者やかばん持ち。収入と幸せの相関関係だって固定ではないのです。じゃあ好きなことをして食べれるだけで幸せだということですよね。

学歴が守ってくれないなら何が・・・という発想かどうか分かりませんが、最近、友人の一人がいわく、「日本はこれから一億層中流が崩れるだけでなく戦後田舎で食糧を求めて人口が流れたように食糧難になるから、田舎でたんぼやっている人だけが食える時代になる」と農業を生業とした理由を教えてくれました。 

まぁ!友人がどんなにつらい思いをしたか思ってかわいそうになっちゃいました。
日本中に蔓延する閉塞感というものの影響でしょうか・・・でも良く考えたら、景気が良くなったら”閉塞感がない”?

っつーことは閉塞感なんてのも、単なる”気分の問題”でしかないのでは?

景気のいいときは気分に流されて大判ぶるまい、景気が悪くなったら気分に流されて極端な守りに入る・・・そういうシーソーをやってきたようですよね。

まぁもし問題が本物であるのであれば、その対策を考えるのに、気分に振り回されて現実を眺めていても、まともな対策は出てこないだろう、というのはごく普通の思考ですよね。まず気分と現実を切り離さなくては。

■ 休息?

そこが難しいのが日本人の本質って言ってしまうと、それは日本人は変わらない論を強調してしまうことになってしまう。日本語っていう部分と密接なのかどうか、それも研究すると答えのない問いのようです。

それに世界では○○人、という分類方法事態が体をなさなくなっていきつつあります。
つまり人種を問わず、やれる人がやれることをやる時代に入りつつあるようです。
君は何がしたいのか?やれるのか?そこしか問われない、ダイバーシティ時代もメルボルンには到来していました。(新たな価値観が必要なのは明白で、金儲けだけがユニバーサルな価値観になっていましたが・・・汗)

最近読んでいるニーチェの言葉では、そうやって気分に流されるときは体が疲れているのだそうです(笑)

十分良く寝て休息を取れ、って話でした、私じゃありませんよ、ニーチェです、言ってるのは。


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