■ 食糧
今日は朝から”買出し”。 気がついたら冷蔵庫が空っぽ!で、イオンまで。愛車ジーノ君活躍です。
私はこの”買出し”が実は嫌いなんです・・・なんだか”食糧”って感じで(笑)
アメリカでは1週間に一度だけ買出しに行くのが決まり。合理主義です。合理主義だと、どうしても効率&安く買うことをテーマにしがちなので、食が単調になるのですよね・・・家庭的な温かさってのとは乖離していきます・・・でも今冷蔵庫空っぽだから仕方ないか。
最近忙しく時間がありません・・・それが空っぽの理由ですが、昨日も忙しかったんですよね。
昨日はヨガの後、研修があり、10時半帰宅というハードな日でした。共働きのときはずっとこんな感じだったかも・・・
考えてみると、私達夫婦に起きたことは、こういう合理主義の砂漠に夫が先に根をあげてしまった、というようなことかもしれません。
帰ったら夫が「ご飯炊けてるよ~」 ありがたいことです。
ただーし、これがこないだまでいたメルボルンの友人宅なら、”Hi Honey, Dinner is ready!” です。
合理主義も悪くない(笑)
友人は、友人って言っても、部長クラスのマネージャー巨漢の白人男性です。 彼によると男性が料理をするのは妻の帰りが遅い場合には合理的だからってことらしい。
買い物さえもやれるほどなんですよ。
■ メカニカルな英語という歪み
昨日の研修・・・日本ってホントややこしい社会ですね。
中学・高校で英語を学ぶのは素晴らしいと思うのですが・・・ここで学ぶ英語って”メカニカルな英語”。
ルールに分解して入試問題を解く。受験には、ルール(公式)で必ず解ける問題しか出ないから。
受験に限らず、試験やテストというのは、本質は実力を測るためのものさし。
実際何のために実力を測るかというと、けっきょく、漫然と勉強していても目安がないから・・・程度の話です。
力をつける、ということに対してのあらゆる試験というものは、”手段”であって”目的”ではない。
この”手段と目的の取り違い”がこれまた顕著なのが、日本人の人生の一大イベントな受験です。
受験が目的化してしまっているのですよね。
受験英語が役に立たないというのは大人のぼやき・・・子供はたくましく自信たっぷりに受験英語というゲームの
ルールをマスターしていました。
一方大人になって英語が必要になると、メカニカルな英語は”英語力”ではない。
それで、英語力、をつけるためには、再度学びなおしが必要になります。2度手間。
これがほんと日本人はややこしいわね、って思う理由です。
受験英語という歪みを与えて、その歪みを矯正するための”やり直しの中学英語”が必要になる。
まるで一旦歪んだカラダにバレエを入れるには、歪みを戻すヨガが要る、みたいだなー(汗)
■ 媚?
誤解なきよう予防しておくと、教える先生も、教科書を作る人も、受験問題を作る人も、学んだ結果が無駄にならないようにできるだけ、役立つ内容を選んで教えています。
それに最近では、教科書もテストもものすごく進化していてビックリ!
大人だって覚えて損のない、羨ましいかぎりの充実した内容がコンパクトにまとめられています。
けど、手段を目的と間違っているかぎり、実力はつかない・・・。
というのは、テストというゲームが終わったらスッカラカンと忘れてしまうわけなので(^^;)
子供がやっているのは、受験英語という種類のゲームでゲームに勝つためにルールを適用しているだけ。
メカニカル英語になってしまうのは子供を釣るせいです。勉強の面白み=受験のゲーム性、で子供をその気にさせよう、という魂胆ですね。
勉強と言う野菜を食べさせるのに野菜と分からないようゲーム性というチョコをかける作戦?つまり、野菜を野菜だよ、と食べさせると、子供が嫌がるので、時間がかかってめんどくさい。技術的な理由か・・・
大人の手抜きといえば手抜き。 ある意味、子供を舐めている。子供への媚、といえば媚と思いません?
でも勉強って嘘でなく、ほんとに面白いですよね?そこんとこ直球で伝えてくれる先生が好きです。でも現実問題としては時間がないようです。(大人がすべきなのは妥協ではなく現実問題の打破のような気がしますが…)
どっちにしろ、子供時代は嘘っぽさや胡散臭さを感じ、この種の手抜きが私は嫌いでした。子供って嘘に敏感なんですよ。それは3つくらいでも同じです。私は小さいときから、”子供向け”とされたものが嫌い。英語ではTalkDownといいます。
同じことでも人によっては、そうは感じないはず。だからこの感じ方が私の個性で価値感です。
一般的多数派は、こちらに寄り添ってくれてありがたいと感じ、うれしいのかな?
そうであるから、このメカニカル英語という手段が子供に親切な手段として日本で一般的なのだと思うのですが。
で、そういう価値感、寄り添ってくれてうれしいは、情緒的な感受性、とも表現できます。多数派。
多数派と同じ感受性でモノを感じられないことが、まぁ私の生き難さといえば生き難さにつながっているのですが、こういう風に小さなズレで少々生きにくいと感じている人は日本中で一杯いそうですよね。 日本は正解が狭い社会なので・・・。
多数派になり損ねたと言う点では、私は日本的価値観を子供時代から、学びそこなっているわけですね。嘘っぽいからヤダ、とか感じる時点で(^^;)。
■ コメントと情緒的というキーワード
今日はコメントをNOBODYさんから頂いたのですが・・・コメントの返事は返って来ないだろうなぁ・・・。何しろ、Nobodyだし(汗)
日本語ってホント、高級言語ですよね。
私は今、子供に向けて敬語を使わず話すよう指示されています・・・これが難しい!子供には「だよね~」とか
「でしょ」と話せと。カジュアル日本語です。そうしないと子供は距離を感じるのだそうです。たしかに。
一方、このコメントをくれた方のように 大人である相手を見くびるために使うこともできます。
ここが日本語の凄いところ。英語にはこんな高級な技ありません。敬語がないのがフラットでステキ。
同じ語尾なのに、相手に寄り添うために使うこともできれば、相手を侮辱するために使うこともできる。
ちなみに、私はこのコメントを侮辱と理解していますが、公開しています。
書いたものには責任を持つことにしているからです。 ただコレを書いた人は多分、自分の書いたものには責任を持たないみたい。残念ですよね。大抵の方が返事をよこさない。だからよっちゃんさんはエライですよ。誠実です。
このあたりの責任感や誠実さというものは、多分に西洋的観念らしく、日本では言い捨て=卑怯なこと、という観念はないようです。
私にはちょっと?ですけどね。
英語国では、問題があれば本人にすぐ話すってのが一番の大原則です。気に食わんときも同じ。
だから、人が書いたものにネガティブな印象を受けたときはコメントするのは本質的にはOKです。
私も実際相手にコンフロントするので良く分かります。勇気が少々、それとかなりめんどくさい。パワーもいります・・・
ただ問題は、指摘するのと、侮辱するのとは別だってことが、日本の人は超苦手みたいなんですよね。
それは情緒的な部分が切り離せないからみたいです。指摘しても侮辱する必要はない。
例えば、私は違う価値感を”間違っている”という強い言葉で書いていますし、それが”言いすぎ”とか”断定しすぎ”という指摘はあってもいいのですけど・・・
人であるかぎり過ちを犯すことはあるわけで過ちを(この場合強い言葉を使いすぎる)犯すことは罪ではありません。
そういう指摘であれば、何が言いすぎで何がそうでないか?という建設的な議論に発展します。
ところが、このコメントのように、敢えてわざわざ人を侮辱する、ということは、この方の真意は侮辱にあり、ミスの指摘にない。侮辱というのは多分、元のところに悪意がないとできませんよね?
悪意というのは、”過ち”すなわちミステイク、ではありませんよね?意図を持たなくては行動が成り立ちませんから。
”過ち”vs ”侮辱”・・・どちらが罪深い行いなのか・・・?
■ 一歩進んで二歩下がる
このブログを書いているのは、ブログタイトルにもあるとおり、家族のためです。
考えてみると家族って近くて遠い人たちでありませんか?
あなたがあなたである、という価値感を一番近くにいながら近すぎて分かってもらえない。
家族が与えてくれる贈り物には色々なものがあると思いますが・・・一義的には、愛、安心感、笑い、友情、心の支え、楽しい時間の共有、経験の共有、理解・・・
結婚とは一緒に幸福を作り上げましょう、という契約ですから、お互いが目指す幸福の形(ゴール)が違っていて間違った贈り物をしていたら、相手にとっては無価値なものを贈っていることになります。
私は夫が欲しいものを与えているのだろうか?彼は妻が欲しいものを分かってくれているだろうか?
そういう価値観のすり合わせは常にやっていたいものです。何しろ、贈り物は13%の価値の減少です(笑)
平たくすると、私が孤高の人のような愛の形を愛と考えない価値観の人だということをまぁ家族に(約一名)分かってもらうために書いているのですよね。
なので、こういうブログでカチンときて、「違う!」と声を上げる人というのは、自分の愛の形が否定されたように感じる人なのでしょうか?それなら、対象違いです、ごめんなさい。
あるいは、ねたみ、ということなのでしょうか?普通は自分とは価値観が違うなーと思っても通過するだけでコメントするエネルギーが出ませんから。カチンときたということは、私の言葉遣いにある断定調の”自信”のようなものに、”自信もつな!”という反応なのかもしれませんね?
それにしても真意は侮辱にあるのですから、おそらく、ご自身が確固たる自信がある言葉を持っていても、聞いてくれる人がいないという不遇にあっているのかもしれません。お気の毒です。
あるいは、日本独特のテクニカルな事情をかんがみて義憤を持っておられるのかもしれません・・・。というのも、日本人は情緒的なので善悪、良い悪い、自分にとって○か×か、そういうことを判断するのに、色々な意見を収集して吟味する、というプロセスがない人が多いのです。納豆が○○にいいと言われば、納豆が売り切れ、ヨーグルトがとなれば…というお国というかお人柄。ミーハー(つまり情緒的)は楽しくてよいのですが、納豆くらいなら無害ですが、信念や宗教、哲学、ものの考え方などだとキケンです…それを心配したのかもしれませんね。ま、その場合は余計なお世話です。このブログ読者数ほとんどいません(笑)多くするつもりも気配もないのですから。
ただ、誠実ってこういうときに返事を返すことなのです、海外では。だから私は海外ではものすごく生きやすい。なぜかというと私の感受性や価値観は、どうも多数派に属するようなのです。私に近い感受性の人は増えているようで、それがどちらかというとこいうコメントを下さる方には気に入らないのかもしれません。
このブログ、私は小学校の頃から日記を書いているのですが、自分自身への備忘録でもあります。
でも読み返していると同じことを切々と訴え、延々と同じ考えを温めているのであまり成長はしていませんね(笑)
外国の友人にも日本の方にも”ブレがない”と言っていただけるのは・・・多分逆に言うとまぁ変わっていないというか・・・私は私で私以外のものにはなれない、ということ、とも言えるわけなのです。
そういう私にいつも付き合ってくれる皆様、どうもありがとうございます。
今日は朝から”買出し”。 気がついたら冷蔵庫が空っぽ!で、イオンまで。愛車ジーノ君活躍です。
私はこの”買出し”が実は嫌いなんです・・・なんだか”食糧”って感じで(笑)
アメリカでは1週間に一度だけ買出しに行くのが決まり。合理主義です。合理主義だと、どうしても効率&安く買うことをテーマにしがちなので、食が単調になるのですよね・・・家庭的な温かさってのとは乖離していきます・・・でも今冷蔵庫空っぽだから仕方ないか。
最近忙しく時間がありません・・・それが空っぽの理由ですが、昨日も忙しかったんですよね。
昨日はヨガの後、研修があり、10時半帰宅というハードな日でした。共働きのときはずっとこんな感じだったかも・・・
考えてみると、私達夫婦に起きたことは、こういう合理主義の砂漠に夫が先に根をあげてしまった、というようなことかもしれません。
帰ったら夫が「ご飯炊けてるよ~」 ありがたいことです。
ただーし、これがこないだまでいたメルボルンの友人宅なら、”Hi Honey, Dinner is ready!” です。
合理主義も悪くない(笑)
友人は、友人って言っても、部長クラスのマネージャー巨漢の白人男性です。 彼によると男性が料理をするのは妻の帰りが遅い場合には合理的だからってことらしい。
買い物さえもやれるほどなんですよ。
■ メカニカルな英語という歪み
昨日の研修・・・日本ってホントややこしい社会ですね。
中学・高校で英語を学ぶのは素晴らしいと思うのですが・・・ここで学ぶ英語って”メカニカルな英語”。
ルールに分解して入試問題を解く。受験には、ルール(公式)で必ず解ける問題しか出ないから。
受験に限らず、試験やテストというのは、本質は実力を測るためのものさし。
実際何のために実力を測るかというと、けっきょく、漫然と勉強していても目安がないから・・・程度の話です。
力をつける、ということに対してのあらゆる試験というものは、”手段”であって”目的”ではない。
この”手段と目的の取り違い”がこれまた顕著なのが、日本人の人生の一大イベントな受験です。
受験が目的化してしまっているのですよね。
受験英語が役に立たないというのは大人のぼやき・・・子供はたくましく自信たっぷりに受験英語というゲームの
ルールをマスターしていました。
一方大人になって英語が必要になると、メカニカルな英語は”英語力”ではない。
それで、英語力、をつけるためには、再度学びなおしが必要になります。2度手間。
これがほんと日本人はややこしいわね、って思う理由です。
受験英語という歪みを与えて、その歪みを矯正するための”やり直しの中学英語”が必要になる。
まるで一旦歪んだカラダにバレエを入れるには、歪みを戻すヨガが要る、みたいだなー(汗)
■ 媚?
誤解なきよう予防しておくと、教える先生も、教科書を作る人も、受験問題を作る人も、学んだ結果が無駄にならないようにできるだけ、役立つ内容を選んで教えています。
それに最近では、教科書もテストもものすごく進化していてビックリ!
大人だって覚えて損のない、羨ましいかぎりの充実した内容がコンパクトにまとめられています。
けど、手段を目的と間違っているかぎり、実力はつかない・・・。
というのは、テストというゲームが終わったらスッカラカンと忘れてしまうわけなので(^^;)
子供がやっているのは、受験英語という種類のゲームでゲームに勝つためにルールを適用しているだけ。
メカニカル英語になってしまうのは子供を釣るせいです。勉強の面白み=受験のゲーム性、で子供をその気にさせよう、という魂胆ですね。
勉強と言う野菜を食べさせるのに野菜と分からないようゲーム性というチョコをかける作戦?つまり、野菜を野菜だよ、と食べさせると、子供が嫌がるので、時間がかかってめんどくさい。技術的な理由か・・・
大人の手抜きといえば手抜き。 ある意味、子供を舐めている。子供への媚、といえば媚と思いません?
でも勉強って嘘でなく、ほんとに面白いですよね?そこんとこ直球で伝えてくれる先生が好きです。でも現実問題としては時間がないようです。(大人がすべきなのは妥協ではなく現実問題の打破のような気がしますが…)
どっちにしろ、子供時代は嘘っぽさや胡散臭さを感じ、この種の手抜きが私は嫌いでした。子供って嘘に敏感なんですよ。それは3つくらいでも同じです。私は小さいときから、”子供向け”とされたものが嫌い。英語ではTalkDownといいます。
同じことでも人によっては、そうは感じないはず。だからこの感じ方が私の個性で価値感です。
一般的多数派は、こちらに寄り添ってくれてありがたいと感じ、うれしいのかな?
そうであるから、このメカニカル英語という手段が子供に親切な手段として日本で一般的なのだと思うのですが。
で、そういう価値感、寄り添ってくれてうれしいは、情緒的な感受性、とも表現できます。多数派。
多数派と同じ感受性でモノを感じられないことが、まぁ私の生き難さといえば生き難さにつながっているのですが、こういう風に小さなズレで少々生きにくいと感じている人は日本中で一杯いそうですよね。 日本は正解が狭い社会なので・・・。
多数派になり損ねたと言う点では、私は日本的価値観を子供時代から、学びそこなっているわけですね。嘘っぽいからヤダ、とか感じる時点で(^^;)。
■ コメントと情緒的というキーワード
今日はコメントをNOBODYさんから頂いたのですが・・・コメントの返事は返って来ないだろうなぁ・・・。何しろ、Nobodyだし(汗)
日本語ってホント、高級言語ですよね。
私は今、子供に向けて敬語を使わず話すよう指示されています・・・これが難しい!子供には「だよね~」とか
「でしょ」と話せと。カジュアル日本語です。そうしないと子供は距離を感じるのだそうです。たしかに。
一方、このコメントをくれた方のように 大人である相手を見くびるために使うこともできます。
ここが日本語の凄いところ。英語にはこんな高級な技ありません。敬語がないのがフラットでステキ。
同じ語尾なのに、相手に寄り添うために使うこともできれば、相手を侮辱するために使うこともできる。
ちなみに、私はこのコメントを侮辱と理解していますが、公開しています。
書いたものには責任を持つことにしているからです。 ただコレを書いた人は多分、自分の書いたものには責任を持たないみたい。残念ですよね。大抵の方が返事をよこさない。だからよっちゃんさんはエライですよ。誠実です。
このあたりの責任感や誠実さというものは、多分に西洋的観念らしく、日本では言い捨て=卑怯なこと、という観念はないようです。
私にはちょっと?ですけどね。
英語国では、問題があれば本人にすぐ話すってのが一番の大原則です。気に食わんときも同じ。
だから、人が書いたものにネガティブな印象を受けたときはコメントするのは本質的にはOKです。
私も実際相手にコンフロントするので良く分かります。勇気が少々、それとかなりめんどくさい。パワーもいります・・・
ただ問題は、指摘するのと、侮辱するのとは別だってことが、日本の人は超苦手みたいなんですよね。
それは情緒的な部分が切り離せないからみたいです。指摘しても侮辱する必要はない。
例えば、私は違う価値感を”間違っている”という強い言葉で書いていますし、それが”言いすぎ”とか”断定しすぎ”という指摘はあってもいいのですけど・・・
人であるかぎり過ちを犯すことはあるわけで過ちを(この場合強い言葉を使いすぎる)犯すことは罪ではありません。
そういう指摘であれば、何が言いすぎで何がそうでないか?という建設的な議論に発展します。
ところが、このコメントのように、敢えてわざわざ人を侮辱する、ということは、この方の真意は侮辱にあり、ミスの指摘にない。侮辱というのは多分、元のところに悪意がないとできませんよね?
悪意というのは、”過ち”すなわちミステイク、ではありませんよね?意図を持たなくては行動が成り立ちませんから。
”過ち”vs ”侮辱”・・・どちらが罪深い行いなのか・・・?
■ 一歩進んで二歩下がる
このブログを書いているのは、ブログタイトルにもあるとおり、家族のためです。
考えてみると家族って近くて遠い人たちでありませんか?
あなたがあなたである、という価値感を一番近くにいながら近すぎて分かってもらえない。
家族が与えてくれる贈り物には色々なものがあると思いますが・・・一義的には、愛、安心感、笑い、友情、心の支え、楽しい時間の共有、経験の共有、理解・・・
結婚とは一緒に幸福を作り上げましょう、という契約ですから、お互いが目指す幸福の形(ゴール)が違っていて間違った贈り物をしていたら、相手にとっては無価値なものを贈っていることになります。
私は夫が欲しいものを与えているのだろうか?彼は妻が欲しいものを分かってくれているだろうか?
そういう価値観のすり合わせは常にやっていたいものです。何しろ、贈り物は13%の価値の減少です(笑)
平たくすると、私が孤高の人のような愛の形を愛と考えない価値観の人だということをまぁ家族に(約一名)分かってもらうために書いているのですよね。
なので、こういうブログでカチンときて、「違う!」と声を上げる人というのは、自分の愛の形が否定されたように感じる人なのでしょうか?それなら、対象違いです、ごめんなさい。
あるいは、ねたみ、ということなのでしょうか?普通は自分とは価値観が違うなーと思っても通過するだけでコメントするエネルギーが出ませんから。カチンときたということは、私の言葉遣いにある断定調の”自信”のようなものに、”自信もつな!”という反応なのかもしれませんね?
それにしても真意は侮辱にあるのですから、おそらく、ご自身が確固たる自信がある言葉を持っていても、聞いてくれる人がいないという不遇にあっているのかもしれません。お気の毒です。
あるいは、日本独特のテクニカルな事情をかんがみて義憤を持っておられるのかもしれません・・・。というのも、日本人は情緒的なので善悪、良い悪い、自分にとって○か×か、そういうことを判断するのに、色々な意見を収集して吟味する、というプロセスがない人が多いのです。納豆が○○にいいと言われば、納豆が売り切れ、ヨーグルトがとなれば…というお国というかお人柄。ミーハー(つまり情緒的)は楽しくてよいのですが、納豆くらいなら無害ですが、信念や宗教、哲学、ものの考え方などだとキケンです…それを心配したのかもしれませんね。ま、その場合は余計なお世話です。このブログ読者数ほとんどいません(笑)多くするつもりも気配もないのですから。
ただ、誠実ってこういうときに返事を返すことなのです、海外では。だから私は海外ではものすごく生きやすい。なぜかというと私の感受性や価値観は、どうも多数派に属するようなのです。私に近い感受性の人は増えているようで、それがどちらかというとこいうコメントを下さる方には気に入らないのかもしれません。
このブログ、私は小学校の頃から日記を書いているのですが、自分自身への備忘録でもあります。
でも読み返していると同じことを切々と訴え、延々と同じ考えを温めているのであまり成長はしていませんね(笑)
外国の友人にも日本の方にも”ブレがない”と言っていただけるのは・・・多分逆に言うとまぁ変わっていないというか・・・私は私で私以外のものにはなれない、ということ、とも言えるわけなのです。
そういう私にいつも付き合ってくれる皆様、どうもありがとうございます。
外国人が我々日本人を理解する場合にも、英語を通して行われている。かな・漢字を通して理解されているわけではない。
だから、英語は、我々にとって単なる一外国語ではなく、とりわけ重要な国際語というにふさわしい情報交換の手段となっている。
英語圏に行けば、片言の英語でも通じる。暮らしてゆける。
完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっていれば、そのうちに、英語も上達する。
我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしがなりたたない。
日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境がととのはないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。
日本の学生のために英語環境を整えることが、語学力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのがよい。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人のあるべき姿と考えることが大切である。
国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しく行われている。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。
英語を実用の言語とする政治指導者のさきを見据えた努力が大切です。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。
英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。かれ等は、生涯、歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能ではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。
一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育はない。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。
大人には考える教育が必要です。一人一人に哲学が必要です。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人には価値がない。
「感情的にならず、理性的になれ」と国民に訴える指導者がいない。
「国民の感情に反する、、、、、」と言うのでは、主張の論拠にならないが、それのみを言う。
感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。
大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生は、平和ボケ・太平の眠りの中にいる。
「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。
日本人は、国連中心主義が好きなようだ。
国連の議場で世界の人々を説得するためには、自己の言葉が冴えわたる必要がある。
議論のできない人があえて国連中心主義を唱えるのは、自己の他力本願を表明するための手段ということになるのであろうか。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
とっても情緒的(感情的)な人が多い。そこは良さでもあり、悪さでもありなのでしょうか…。
また改めてブログ本編で考えてみたいと思います。