共同体の感じ方

2013-04-22 08:09:02 | 魂と心の成長

最近、新しい友人ができて、その友人と共同体に関する感じ方の差を感じています。

共同体というのは、要するに、世間、とか、ご近所、ってことです。

■ 遠くに行きたい、これだけの理由

私にとって郷里熊本は非常に窮屈な世界でした。 今はもう大丈夫と思いますが、大学の頃などは、実家に帰れば、たまたま入ったうどん屋で、小学校の頃の同級生だった星野君のおばちゃんがパートの仕事をしていて、「あら!○○ちゃん、帰っとったとね!」「いつまでおるとね」「大学はどうとね」

…。 私は質問攻めに遭う前に、逃げ出すことばかりを考える…のが通常の成り行きです(汗)。

この後はきっと、「今日、○○ちゃんに会ったとよ~」と、ご近所のゴシップネタにされること想定内。特に実家の周りでは「○○さんは○○銀行にお勤め」「結婚した」「だれそれと付き合っている」「子供がいる」 ・・・女性週刊誌と同じです。キリがない。誰が東大に行こうが、熊大に行こうが、いいんじゃないかと思いますが、詮索という単なる暇つぶしのネタにされるのはすごく不愉快なものです。

これについて回るのは価値観の押し付け。「いい人はおらんとね」「はよ結婚しなさい」恋人がいればいたで「なんばしよっ人ね?」「会社はどこね?」 と値踏みがはじまる…

ああ~超めんどくさい!! ほっといてんか~ってワケで、別にティーンエイジャーじゃなくても、反抗期に突入です(笑)。

さらに、どうでもいい他人と比較される。「○○ちゃんはもう子供が二人おるとよ」

だから、なんなんだ~!!と叫びたくなるので、実家とか、故郷とかいうところは、私にとって、庇護と安心を与えてくれる場所ではなく、ひたすら、”逃げ回るべきもの”でした(笑)。

こうした世間観以外にも、たとえば、我が家は3人も子供がいる母子家庭の家なのに、休日に早朝からある町内の草むしり…出ない(というか出れない)となんと罰金なんです!悪しき平等主義。ただでさえ苦しんでいる家庭をさらに苦しめることを正当化する。これのどこが温かい共同体なのか?超不明です…

そして、こういう世間であるために、私は「世間から後ろ指を指されないよう」とくぎを刺されつつ、成長したので…今思えば、学業優秀であったりすることは、私にとってより、母にとって重要で、母に世間の通行手形を渡してやることでした。

さらに拍車をかけたのが、長女であることです。言うまでもなく、家族は最小の社会単位です。ところが、この家族で…おねえちゃんだと、常に庇護を与える側。決して、与えられる側ではない。その上、この役割は生涯変わることがなく、そして、それは義務なのです…。

常に、姉として、年少の兄弟に、庇護を与える義務がある。義務がある、というところでもう、ウザイですよね。義務があれば、それは平等な関係でも、愛情のつながりでもなく、”仕事”だからです。というわけで、小さいころから責任感の強い子ども、と言われて育ちました。

大人になれば愛情だけで結ばれた関係で生きていける!と思ったら、とんでもない。義父だって「僕の介護が必要になったらよろしく」とか平気で言います。

私だったら「私のことは気にしないで、自分の人生を生きない」と自分の娘には義理だろうが血がつながっていようが言うけどなぁ。まぁ義理の娘だから、愛されることを期待するほうが間違いか。

だから私にとって

 家族から離れること=義務からの解放
 実家から離れること=押し付けの価値観からの逃避

ですね(笑)こういう流れで育った人の当然の帰結として、世間=ウザイ です(笑)

もう、できるだけ遠くに行きたい。元いたところから遠ければ遠いほどいい。そんな感じ。 山で縦走したいのと似てる(笑)。

■ 常にエグジットを考えている

だから、私は都会が好きなんです。都会の人は価値観は人それぞれだ、という前提に慣れている。もしサンフランシスコなんかに住めれば本当に幸せです。とんでもなく変な人がたくさんいる街なので、私なんて超ノーマルな方に入りますから(笑)。日本人のユニークさなんて、単なる誤差の範囲にしか入らない。人と違うことで罰を受ける社会ではない。

それに、仕事においては、「エグジット」つまり「出口」を常に考えていました。

つまり、辞めることを前提で働く。一生そこにいるつもりでは働活きませんから、今何で成長できるのか?会社に私がいる間に何が貢献できるのか、常に考えています。 

自分が与えられることは何か?今得れるものは何か? どうするのがベストか?

それは、死を意識しながら生きるのとちょっと似ているかもしれませんね。時間が永劫でない、ということを前提とするという意味で。

ずっとそこにいる前提で生きない。

■ 温かな共同体?

ところが、最近知り合った友人は…驚いたことに、いたく快適なゆりかごとして世間を認識していそうです。

というのは、失業した際に私が感じる強い危機感を彼は感じないようだからです。

もちろん、私が感じる危機感は、孤独に生きていた頃の感受性を基にしていたので感度が良すぎで、今は夫と結婚していますから、私が多少職を失ったくらいで、明日からの生活に急に困り始めるなんてことはありませんが…そのことに気が付いたのはごく最近です(^^;) グランドフォールする!って思ったら、宙吊りで…、それも足がつける所だった(汗) な~んだ、みたいな感じ。

山梨は古くからの共同体の意識が根強く残るところです。無尽が有名ですよね。

私にとっては とっても謎な世界… だって、私にとっては共同体なるものは、基本的に逃げ回るべき、忌まわしいものなのですから。
皆が助け合う世界なのかしら?どうかしら? 私の実家では助けるものは一方的に助ける一方、助けられるものは助けられることを権利だと主張する一方でしたが・・・。

私にとっては、共同体は、相互扶助、の世界ではなく、一方的に自分が助ける側、という世界です。

相互じゃない… 大きな視点では、今の日本の税制を見ても、高所得な人たちというのは、罰されるかのごとく、課税されるのが日本の税制で、日本的価値観がそこに現れているんですよね。優れたものには本人の意図に関係なく足かせを、っていう価値観…。頑張っても頑張っても重荷が重くなる一方です。つまり頑張らない方が得になるように設計されている。

ところが、アメリカの場合は、分かち合い(シェア)が奨励されているだけです。分かち合うという気持ちがない人はスクルージと言われるだけです(ユダヤ人の金貸し、ケチ) 結果、寄付の社会で、大きな高校など、個人の名前がついていたりする。寄付の額でいうとアメリカは日本の比較にならないでしょう。寄付をすることは成功の証なのです。

私にとってはアメリカでの共同体意識は、目からウロコの体験でした。初めて、要求されない共同体を感じることができた。

私から奪おうとしない共同体、ですね。 むしろ、アメリカ社会は、社会の底辺の引き上げにとても熱心で、移民1世はかなり大事にされます。困難な人生を自ら選んだことに対する敬意みたいなものを感じますね。たとえば移民に対する語学教育は無料ですし、コミュニティカレッジはかなり安いです。そういうところを見て、アメリカ好きになったんだろうな。

■ 自由意思を基にするなら平気

とはいえ、私は、血縁や地縁など、いやおうなく受け入れざるを得ない絆、を基にしない自由意思を基にした絆、に関しては、とても楽に受け入れることができるのは、若いころに寮生活を経験しているためではないかと思います。夫は共同体生活がとても苦手です。人とは暮らしたがらない。自分の親と暮らすのも嫌らしいです・・・

私は、大学は寮でした。思えば、大学の寮は、家賃がとても安かったので、司書の給料自体が非常に低くても、可処分所得が大きく、生活が一番楽な時代でした。

それは、親元から通って仕事をしているパラサイトシングルと似ているかもしれませんね、余談ですが。

目的を同じくする人たちが身を寄せ合って住む、という暮らしは、ライフスタイルが似ているのでとても楽です。アメリカでもずっとシェアして住んでいて、世界各地から来た人と暮らしましたが…別に問題はありませんでした。 中国人の台所が匂いがきついのには閉口しましたが…。

以上が、私が知っている共同体のすべて…。ほかの仕組みは知りません。

そうしたものではなく、地域に密着した生き方をしている友人…ちょっと聞いてみたら、別に窮屈ではないそうです。

へぇ~、それはどうして窮屈ではないんだろう?

共同体、私にとっては、ちょっと新しい、興味津々な分野です。

 


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