忙しい、ということって、自分の周りの時間の流れが他よりも「濃密だ」と思う。
おかしな言い方かもしれないが。
もしも、マス目に「時間」という駒を埋めていけるのなら、平常の時間帯は
「ひとマスに一個」、のんびり過ごす時間帯は「ひとマスおきに一個」。
今のような多忙な時間は「ひとマスに三個~五個」とか?
たとえて言うなら、集中力の差?
たとえば、あたしは交通事故に遭ったときに、目が覚めたら天井が見えた。
確かに「道路を友人を追いかけて走っていた」はずだったが。
ゼミで鉛筆を忘れて、隣の子から借りたのを返そうとしたのだった。
なのに、どうして目の前に白い板があるのか?
理解するのに、しばらくかかった。
あのときは、たぶん五十マスに一個、くらいかな?
それから、去年、階段で頭から落っこちたとき。
あのときは、自分の右肩が階段の二段下の踏み板に当たったのを感じて身をひねり
足を回転させて背中をよじって、五段くらい下の段でなんとか頭を上にして立って
体重が自分の体を下に押そうとするのを、バランスをとってこらえた。
体操競技の「床運動」を想像してください。
あの時間帯は、あたしのひとマスは100個~1000個くらいの密度だったな。
痣ひとつできなかったから、ほとんど空中作業だったのだろう。
集中力って、意識が時間を凌駕すること、かも。
忙しい忙しい、って言ってるときには、それなりに細かくお茶の時間やらなんか
出来ているもんです。
暇だな、なんて時には、自分の中で時間が止まったみたいに結果が出ないっけ。
そう考えると、人間って、けっこう「時間を操作している」のかもしれないね。
おかしな言い方かもしれないが。
もしも、マス目に「時間」という駒を埋めていけるのなら、平常の時間帯は
「ひとマスに一個」、のんびり過ごす時間帯は「ひとマスおきに一個」。
今のような多忙な時間は「ひとマスに三個~五個」とか?
たとえて言うなら、集中力の差?
たとえば、あたしは交通事故に遭ったときに、目が覚めたら天井が見えた。
確かに「道路を友人を追いかけて走っていた」はずだったが。
ゼミで鉛筆を忘れて、隣の子から借りたのを返そうとしたのだった。
なのに、どうして目の前に白い板があるのか?
理解するのに、しばらくかかった。
あのときは、たぶん五十マスに一個、くらいかな?
それから、去年、階段で頭から落っこちたとき。
あのときは、自分の右肩が階段の二段下の踏み板に当たったのを感じて身をひねり
足を回転させて背中をよじって、五段くらい下の段でなんとか頭を上にして立って
体重が自分の体を下に押そうとするのを、バランスをとってこらえた。
体操競技の「床運動」を想像してください。
あの時間帯は、あたしのひとマスは100個~1000個くらいの密度だったな。
痣ひとつできなかったから、ほとんど空中作業だったのだろう。
集中力って、意識が時間を凌駕すること、かも。
忙しい忙しい、って言ってるときには、それなりに細かくお茶の時間やらなんか
出来ているもんです。
暇だな、なんて時には、自分の中で時間が止まったみたいに結果が出ないっけ。
そう考えると、人間って、けっこう「時間を操作している」のかもしれないね。
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