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Bassist・菊池“out-low”智弘の不定期わいわいBlog。

東日本大震災その3。

2011-03-18 | Weblog
一度、自分の頭を整理する意味で、今回の地震を日を追って記していきます。まだ辛い思いの方もおられるでしょう。俺も喜びの裏に、悲しみもありました。各々の判断で、お読み下さい。



2011.3/13(日)

彼女や友人達の安否がわからず、一睡も出来ないまま迎えたこの日。食えるだけマシなんだと自分に言い聞かせ、カップラーメンを無理やり食べる。

日中、ご近所さんのご好意で車で携帯の充電をさせてもらい、メールの返信を始める。当然連絡がつく人も居れば、全く音沙汰のない人も…こんなに喜びと落胆が交差したのは初めてで、激しく混乱した。

この時石巻で連絡が付いたのは、バンドメンバーのハヤトのみ。ハヤトは俺の彼女を気にしてくれて、こんな状況の中で、翌日からめちゃめちゃ駆け回ってくれた。しかしこの日も翌日も彼女の消息は不明だった。

夕方には義姉が来て、再び車で携帯充電。この時点では、メールの送受信は比較的繋がりやすくなっていて、東京に居る親友と頻繁にメール。彼の実家は石巻で、俺にとっても“もう一つの実家”みたいなもん。大切な『家族』だ。その家族の安否を心配しつつも、俺の為にも彼は東京で色々と調べて情報を送ってくれた。

車内で充電しながら携帯をいじっていると、21時を過ぎた頃に電気が回復。地震から約2日、被災地の中でも全然恵まれている環境だったが、彼女や石巻の友人達を思うと全然喜べなかった。

この日からmixiを使って、やれる事をやり始めた。mixiにも安否を気にしたメッセージ等頂いていたので、皆に折り返したり日記を書いたり。
彼女のマイミクさんからのアクセスもあったので、恐らく携帯が手元に無いであろう彼女に代わり、そちらの対応も。

何となく…色々と何かをしていた方が、気が紛れる部分があったんだと思う。しかしその行動によって、皆様からあたたかい言葉や応援を頂き、どれだけ前向きになれた事か。押し潰されそうな自分を救ってくれた皆様には、感謝してもしつくせないくらい。これから先、いつになるかわからないけども、必ず1人1人にお会いして直接お礼を言いたい。そんな気持ち。

東日本大震災その2。

2011-03-18 | Weblog
一度、自分の頭を整理する意味で、今回の地震を日を追って記していきます。まだ辛い思いの方もおられるでしょう。俺も喜びの裏に、悲しみもありました。各々の判断で、お読み下さい。



2011.3/12(土)

早朝6時すぎ、渋滞もすっかり解消されたのを確認して避難していた駐車場を出発。その直後、前日の爆発から燃え続ける仙台港の工場付近でまた大きな爆発音。車がビリビリ言う程の衝撃に、ハッキリ言ってビビった。

気持ちは早く遠くへ離れたいが、信号が停止している為、全ての車が安全運転。譲り合いの精神がホントに凄かった。4号バイパスが絡む数々の交差点で、あそこまで円滑に車が動いたのはちょっとした奇跡だと思う。


セイジロウさんの自宅付近を通り、建物が健在なのを確認。そのまま自宅へ向かう途中、見慣れた建物達の変わり果てた姿に言葉を失った。

我が家もなかなか古い建物、嫌な予感と共に“大丈夫大丈夫”と言い聞かせながら、自宅に到着。外観は所々にひび割れがあり、囲いのブロック塀が崩れた程度。

が、中に入ると再び言葉を失う。相当めちゃめちゃなのはわかっていた事だけど、実際にその目で見た時のショックは、想像以上の衝撃。

両親と祖父母の安否を確認し、焼きおにぎりをかじる。幸い我が家には石油ストーブがあった為、冷凍していたご飯を焼く事が出来た。お湯も沸かせたし、前日の夜も寒さに震える事はなかったと言う。祖父母もだいぶ歳なので、一安心。

その後はさっそく片付けの開始。この間もずっと携帯をいじっていたが、一向に繋がらず、そのうち電池もなくなった。
一番役にたったのはやはり携帯用ラジオ。これはホントに持ってて良かった。情報が入ってくる事はもちろんだが、聞き慣れた地元放送局のDJの声が、気持ちを落ち着かせてくれた。

その後、町内を周り情報収集。ご近所さんは無事か、近隣店舗は営業するのか、ガソリンは入れれるのかなどなど…。

夜はストーブをコンロ代わりに、軽めの調理をして食事。もうこの時点で、自分の環境はだいぶ恵まれている事に気付いた。ラジオの情報では石巻は壊滅状態で、酷い状況だと聞く。彼女からの連絡、友人、知人からの連絡は一向にない。不安ばかりが増し、箸が進まなかった。

東日本大震災その1。

2011-03-18 | Weblog
一度、自分の頭を整理する意味で、今回の地震を日を追って記していきます。まだ辛い思いの方もおられるでしょう。俺も喜びの裏に、悲しみもありました。各々の判断で、お読み下さい。



2011.3/11(金)

この日は、地下鉄東西線の工事現場にて朝から仕事。東側の最終駅となる“荒井”と言う地域で、これまでも何度か来ている現場。

予算調整で至る所で工事しまくりの2~3月だが、例に漏れず前日までは俺も、あっちこっちと忙しい毎日だった。この日はたまたま欠勤が出た為に、現場変更で荒井に入った。

午後、眠気を抑えながらのんびりした勤務の中、別会社の人に休憩を伝えようとしたその時…


「あ、地震…ですね」とその人。

「お、そうですね」と俺。


そんな呑気な会話を交わしていた次の瞬間、徐々に揺れが激しくなる。次第に、立ってるのもやっとなくらい激しく横に振られ、見慣れた景色が激しくブレる。そばにあった電柱にしがみつくも、その先の電柱が倒れるのを見て危機を感じた。

一度収まったかに思えたその揺れは、再び激しさを増す。経験した事のない物凄い激震。恐ろしい地響きをあげ、下から何かが噴き出すかの様に道路はひび割れ、建物の窓ガラスは弾ける様に飛び散る。

現場作業なだけにヘルメットを着用していたので、幸い頭上の心配はなかった。その分、じっくり周りを見る事が出来たのだと思う。

揺れの最中に、すぐ石巻の彼女へ電話。留守電にメッセージを残し、次に両親へ。しかし既に繋がりにくく、メールに切り替える。

現場の全作業員の無事を確認し、避難を始めたのは15時半くらい。現場近くの大通り、産業道路は既に大渋滞。信号も停止。

そのまま4号バイパスに出ようとするも、当然こちらも大渋滞。ガソリンが無く、渋滞に入ってはガス欠するのが目に見えていた為、覚悟を決めて車を路肩に停める。

近くのコンビニが非常用の電気で営業していたので、2~3日分の食料(とは言えほとんど何もなく、お菓子数点とサラミ、コーラ2本)を買い、車に戻る。…途中、大きな爆発音(仙台港工場の火災)を聞き、遠目ながら津波に流される車を目撃する。

身の危険を感じ、少し西へ移動。広めの駐車場へ車を停め、何とか繋がらないかと携帯をいじるも、16時を過ぎた時点で既にメールも困難な状況だったと思う。

その後は車内でラジオの情報に耳を傾け、何度と来る余震に身を構えながら、眠る事なく朝を迎えた。仕事用にホッカイロを持っていたのは、運が良かったかもしれない。