OKKA FC

地元宮城大好き・キャンプおばさん
そして突然のBUCK-TICK!

四十九日まで

2015年02月27日 | ひとりごと

(画像お借りしました)

Pちゃんが亡くなった日、南東の空にものすごい大きな天使の階段が見えました。

写真のような美しいものではなく、黒く立ち込めた雲は生きもののように恐ろしく、

その口から吐き出される何筋もの光が大事な命をもぎ取って連れて行かれる。様な感覚が

あって病院の6階から見ていて動けませんでした。みんなが来るまで立っていられるかなと。

ガラスの向こうに見える街はいつもの日常なのに、ガラス1枚隔てただけで景色が違って見えたな。

 

四十九日までは、3人でPちゃんと同じ部屋に布団を並べて寝ました。電気は消せなかった。

しっかり夢にも出てきてお話もしたし、一緒に観戦予定だったベガルタの試合を遺影と共に見たり。

数多い夢の中でも最後に見た夢が1番きつかった。短い夢だったよ。Pちゃんが礼服を着て「法事に

行ってくる」って出掛けたんだけどすぐ帰宅して、ポケットからお悔やみの封筒を無造作にテーブルに置いて

怒ってる風でもなく、だけど強い口調で「なんで俺なんだよ」って言ったとこで目が覚めたの。泣いたなー。

 

四十九日が明ける前、元気付けにベガルタの試合に子供たちを連れて行った時は、てっぺんの座席に

陣取りながら1人になった時(子供たちはとっとと売店へ)、寂しすぎて急に苦しくなって倒れそうになりフラ

ついてたら、前触れもなくバケツをひっくり返したような雨がスタジアムの屋根に叩きつけて、音の凄まじさに

意識を覚醒させられたみたいになって。Pちゃんに叱咤激励された気持ちで我に返る事ができました。ドモ。

 

兄くんはいつも優しく声をかけてくれる。弟くんは中学に入るまで耳かきしてくれた。おかげで泣き暮らす事は

ありませんでした。Pちゃん、2人の宝物ありがとう。いきものがかりの「さくら」はサイゴの思い出の曲だよね

四十九日過ぎてから夢も見なくなったけど、義母の夢で「お米ヨロシク」は大笑いしたなあ。Pちゃん面白過ぎ。

暗い話だったけど、初めて全部吐き出せた。次のお墓参りは笑顔で行くからおいなりさん一緒に食べよ

 


2月がキライな理由

2015年02月27日 | ひとりごと

大っ嫌いな2月。写真は2007年2月のカレンダー。子供が熱を出した時かな。

平凡な毎日なはずのに、この年の2月は怖くて怖くて早く時間が過ぎてほしかった。

子供のサッカーを応援していても、ベガルタの話題で笑っても、お出かけしても

バレンタインのチョコを買ったり、Pちゃんに財布を買っても取り除かれなかった不安。

その矢先Pちゃんに近しい叔母が亡くなった時、この胸騒ぎはこの事だったのかな?

と思ったけどイヤな空気は続いていて・・そのうち弟くんが高熱でうなされたり、私の見た

夢がまさか現実になるなんて。後から気付いた事だけど。弟くんは高熱の中、私を恐ろしい

ものでも見るように怯えて「おっか置いていかないでえええ」って大泣きしたり、私は私が

喪主の夢を何度も見せられて。遺族席には私と子供2人しかいなかったから、失礼だけど

じっじが亡くなる夢なのかな?と勝手に思ってた・・あと少しで2月終わる。春が来る。Pちゃんの

バースデーをパッと祝って。そしたら苦しくて怖い胸騒ぎは嘘のように晴れるはず。って思ってたのに。

3月に入って間もなくPちゃんは体調を崩し、それでもベガルタの開幕戦をテレビで見ながらお喋り。

2~3日熱が下がらず、休み明けに再度病院へ行ったら肺炎です。ってすぐに日赤を紹介されて。

月曜の昼に検査して、夕方には2人で告知を受けて、翌日のお昼あっという間に召されてしまった。

瞬間的に現実を拒否したので涙は出なくて葬儀が終わるまで夢中で動いてました。義母が危うくなって

支えないといけなかったし。私が声出してワンワン泣けたのは3回忌を過ぎた心療内科でした。今でも

あの2月と3月が夢みたいです。だから毎年2月は見えない何かに怯えてた時間として頭に摺り込まれて

キライになっちゃった。早く終わって2月! もう8年・・Pちゃん幸せに暮らしてますか?だったらいいんだ。

(病気の事は2014・12・29に書いたので省かせていただきました)