いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

「老い」の歌三題~窪田空穂・斎藤茂吉・宮柊二~

2019-07-02 19:29:16 | 短歌


歌人にとって、「老い」と「死」は、人生の最期に残された課題である。
わたしたちは、すぐ前のことを忘れるのに、ずっと以前のことを覚えている、
という不思議な性向をもつものだが、老境に至ると、
その傾向は、さらに顕著となる。
10代のことを直前のように思い出す老人は、多い。

さて、ここでは、窪田空穂・斎藤茂吉・宮柊二の対照的な老いの歌を、
摘記しておきたい。
……

窪田空穂は、長命で、亡くなる寸前まで明瞭な意識をもっていた。

ありうべき最悪の態つと浮かび見つめんとするに消え去りにけり
若き日は病の器とあきらめぬ老ゆればさみし脆き器か
世の常の老ひの疲れかもの憂さの襲ひ来たりて果てしなげなる
いかなる心をもちて死ぬべきとあまた度おもひぬまたも思ふかな
四月七日午後の日広くまぶしかりけりゆれゆく如くゆれ来る如し

斎藤茂吉は、晩年は認知症ぎみではあったが、すぐれた歌を残している。

この体古くなりしばかりに靴穿きゆけばつまづくものを
肉体がやうやくたゆくなりきたり春の逝くらむあわただしさよ
暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの
あはれなるこの茂吉かなや人知れず臥所に居りと沈黙をする
朦朧としたる意識を辛うじてたもちながらにわれ暁に臥す
……

このように、2人には老いによる人生の静かなる終末意識がある。
これに対し、宮柊二の歌は、老いと病の混交した姿を思い浮かべさせる。

すたれたる体横たへ枇杷の木の古き落ち葉のごときかなしみ
台風の夜を戻り来て人生を長く生きこし思ひこそ沁め
寝付かれず夜のベッドに口きけぬたった一人のわが黙しゐる
脱ぎし服ぞろりと垂るる衣文掛けわが現状はかくの如きか
腕と足目と歯と咽喉すべてかく不自由に堕つ老人われは
幻覚にしばしば遊ぶ体調に意識乱るるこの二三日
……

宮柊二の場合、病に衰える身体へ客観的な視線が感じられるだろう。

三人の歌を並べてみると、老年をいかに迎えたか、による違いが、はっきりと見て取れるように思われる。



























老いる前に病んでしまった宮柊二の悲劇~ミヤリイノ・シュージノヴィッチ~

2019-07-02 17:35:29 | 短歌


斎藤茂吉や窪田空穂の老境を詠った名歌は多い。
「老い」の文学を形成することができたのだ。
ところが、宮柊二の場合、こうした静謐な老境を詠う、
ことは不可能であった。
あまりにも早く病に見舞われ、訪れた「老い」とともに
歩むことを強いられてしまったのだ。
具体的には糖尿病で、50代にして業病と戦わなければならなかった。
入院中に歌った次のような歌がある。

……

しづかなる生命来にけり夜を起きてしびんに己が音をし聞けば

しびんに当る尿の音。それが夜の病室に響く。わびしい孤独感。しかし晩年はここにしかない。疑えない事実としてのおのれの衰え。自分の発した尿の音。「しづかなる生命来にけり」というなんでもないフレーズが効いてくる。
……

一方、「宮柊二」というブランドはもう出来上がっていて、そのブランドを自嘲するような、また、ユーモアで紛らわすような歌もつくっている。
「コスモス」選者として、著名になってしまったこと、
「朝日新聞歌壇」選者として、風貌と名が知れ渡ったこと。
彼は、病のゆえもあり、鬚をのばしっぱなしにしていた。
次のような歌を残している。

……

採血の済みたる耳を抑へ戻る二十年近く切られの柊二
頭を垂れて孤独に部屋にひとりゐるあの年寄は宮柊二なり
ひげそらぬ我の陰口ミヤリイノ・シュージノヴィッチと呼ぶ友のあり










歌人の体験と歌創り~「山西省」など~

2019-07-02 17:08:13 | 短歌


河原より夜をまぎれ来し敵兵の三人までを迎へて刺せり
ひきよせて寄り添うごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

……

宮柊二の、戦中体験をもとにした歌集「山西省」からとったものである。
これが、事実をいったものであるかどうかは、いまだに議論が分かれる。
しかし、このような過酷な戦争の中で、
宮柊二の体験が蓄積されたことは疑いがない。
それが、後年の宮柊二の運命と歌に深い影響を与えたことは、
すでに確固たる事実である。
このような体験から、宮柊二は、自らの体験のほか何物をも介在させない作品を生み出した。
戦後、華々しく変わる時代の中で、左にぶれるでもなく、右にかたむくでもなく、「庶民」の感覚を固持して、独自の世界を構築した。
1939年までは北原白秋に師事したが、
日中戦争に出征することで、その軛から離れた。
さらに、戦後は富士製鉄の社員として勤めるかたわら、
歌を詠み続ける、という道を選んだ。

……

はうらつにたのしく酔へば帰りきて長く座れり夜の雛の前

サラリーマン時代に残したこの歌の延長線上で生きた。
にもかかわらず、「コスモス」という結社の主宰となり、
朝日新聞歌壇の選者となって、
「庶民の短歌」を先導することになってしまう。
しかし、50代にして糖尿病に侵され、老いを迎える前に病者となり、
自らの思いを実現することができなくなった。
具体的には、再度山西省を訪問してゆっくり往時を顧みながら歌を作る、
という願いはとん挫した。

そして、病者としての自分をときに深刻に、ときにユーモラスに詠ってみせた。

このような自分史のなかで、人生の終焉へと向かったが、山西省での体験の深みを消し去ることはできなかった。

























歌人の体験と歌創り~「山西省」など~

2019-07-02 17:08:13 | 短歌


河原より夜をまぎれ来し敵兵の三人までを迎へて刺せり
ひきよせて寄り添うごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

……

宮柊二の、戦中体験をもとにした歌集「山西省」からとったものである。
これが、事実をいったものであるかどうかは、いまだに議論が分かれる。
しかし、このような過酷な戦争の中で、
宮柊二の体験が蓄積されたことは疑いがない。
それが、後年の宮柊二の運命と歌に深い影響を与えたことは、
すでに確固たる事実である。
このような体験から、宮柊二は、自らの体験のほか何物をも介在させない作品を生み出した。
戦後、華々しく変わる時代の中で、左にぶれるでもなく、右にかたむくでもなく、「庶民」の感覚を固持して、独自の世界を構築した。
1939年までは北原白秋に師事したが、
日中戦争に出征することで、その軛から離れた。
さらに、戦後は富士製鉄の社員として勤めるかたわら、
歌を詠み続ける、という道を選んだ。

……

はうらつにたのしく酔へば帰りきて長く座れり夜の雛の前

サラリーマン時代に残したこの歌の延長線上で生きた。
にもかかわらず、「コスモス」という結社の主宰となり、
朝日新聞歌壇の選者となって、
「庶民の短歌」を先導することになってしまう。
しかし、50代にして糖尿病に侵され、老いを迎える前に病者となり、
自らの思いを実現することができなくなった。
具体的には、再度山西省を訪問してゆっくり往時を顧みながら歌を作る、
という願いはとん挫した。

そして、病者としての自分をときに深刻に、ときにユーモラスに詠ってみせた。

このような自分史のなかで、人生の終焉へと向かったが、山西省での体験の深みを消し去ることはできなかった。