思った通り、
願った通り、
なるものこそが、幸せとしたのは誰だったろう?
人生の極初期に、希望を持ちなさい、目標を持ちなさいと
せかしたのは誰だったろう。
あの人らは間違ってた。
ヤングの時と壮年期と中年期と老境とでは、同じ心臓の1個体のその人は、「別の人」で変わり続けるものだった。
それはつまり、期待してることも、希望も、常時変化(へんげ)したし、それこそ「目標が変わりやがった」なんてなものではなく、都度都度の適切に置き換わるのみが、生きやすさの肝心要だった。
それを鑑(かんが)みるに、変容する目標なんてのは照準できないし、徹底もなされない。
むしろ「しきってはいけない」手合いのものだ。
なのに、そこへ「自在であれ」とことばするものが妙に少ないし、教授できもいない。
実に行き当たりばったりで、適当で、適切であることの方が「重要で重大で本当」だった。
冒頭にいう「思った通り」「願った通り」が、人生のフェーズごとに「別もん」になりますんで、決めるほどにつんのめるんですよ。転んじゃうほどにね。
だから柔軟であること、正しさより適切を取ること。
思った通り、願った通りなんてのに、拘泥されない自在であること。
ここいらがかなって過ごせてる時間が多いほど、幸せだろうな。
幸せの真価は、自分が味わってるものなんで、他者に渡す領分、ないんだよね。
都度都度のエンジョイと、都度都度の試練とを、禍福は糾える縄の如しっぽく凌いでおきさえしとけば、もうあとはあんまり思案も不要ですわな。存分で生きなされ。
息なされ・粋なされ・生きなされ♪
人生って、意味じゃないんだ、味わうとこだから。