本当にいいものってのの怖さは、それ以外のどんなに精緻で凝った作りの作品ですらも、「見劣り」の方へ押し出すくらいの唯一無二が備わってるんです。
そこには「交換の効かなさ」が厳然とあり、秀作・佳作たちが「頑張っていいもの」に仕上がってきてても、「天才の領域」で駆逐されてしまうんです。
秀作・佳作が人力で組み上がってて、経験則
や数年・数十年の鍛錬で達し得る高みであったとしても、「うまい!」と褒めれはしても、どこかで「この作品でなくとも・・」という代替の余地が残ってしまうのです。
それでは「悪くはない」が喉元に残るのです・・・そこが、スタートラインが、もう「違う」フェーズになってしまうんです。ゆえに「二度はもう、いいかな」ってなってるはずです。
ところが、
本当にいいものとは、真価にビッシリ密度があり、采配に絶妙がこもり、「なぜ今の今までこれがなかったのだろう?」なる疑念が湧きたつほど、見た側・触れた側に「これは自分の物語!」と直感させ、手放せなくなります。
そうした作品に触れてる時間中、実は体験当事者は、その芸術作品を眼前にしてる進行系の最中にも、全く併走してるみたいに、等走度で「自分の体験則」を重ね合わせてみやってるという、パラレルワールドみたいな経験をしています。
目の前のモチーフやテーマやスピリットなどが、烈しく突いたキューの白玉みたいに弾け飛んでいって、自分の中のビリヤード球たちを獰猛に蹴散らし、てんでアチコチに無造作に走らせてるのに、その全部に妙な「見渡せてる」感があって、いくつもラックしていくのも見通せてるみたいな万能感が迸(ほとばし)ります。
目の前で現在進行形の作品を、見損じることなく見ながら、自分の心の中にバイパスみたいな「インスパイアされて・今、真っ盛りに起こってる」併走時間軸が、いく層も横並んで進んでるんです。そのどれ一つ取りこぼしなく、「掴めている」という妙な自信に満ちて。
すなわち、一回見通しただけでは自分が今得た感覚が掌握できず、飲み下せもせず、ただ間違いなく「再度触れにいかないではいられない」衝動が酷いのです。
焦燥なり落胆なり無力感なり、あまりにも身近で、あまりにもたどり着けてなかったことへの驚きで、自分自身が足場を失い切るんです。
そう、礎(いしずえ)としてたものが、大転換を起こさざるを得なくなった「パラダイムシフト」に、作品一つでてんてこまいにされてるのに、大いに喜んでいる。
大急ぎで再構築しなくては、自身が世界を見に行くルールすらも破棄させられてますから、混沌っぷりなのに、心のどこかで「これを待ってた!」って声を、自分で見つけちゃうんですよ。
🐼がこの年になっても、いい作品を求める理由はすべからくこれで、出会うまでは「どこかにそーゆーのんがあるはず」って思ってるだけなんですけどね、実際に年に何度かそういう体験を得るんです。
その都度、🐼は持ち前の礎(いしずえ)を捨てますし、ゴールポストも移動させますし、混沌のママを恥ずかしくなくなってる状態になれます。そのモラトリアムっぷりは、人を心底自由にさせますし、他者にもまた似通う自在を渡したい気概で満ちるんです。
そこで得たソウルフルは、万能感に似通う絶対さで、それが錯覚なのも重々承知の、脆さ上等なエッセンスなんです。
スピリチュアルの話してんじゃないんですよ。
真にすぐれ切った作品には、それを為せるって話です。
人間の溌剌につながる、源泉みたいなエネルギーは、手に入るのだと信じれるんですよ。
無尽蔵みたいに、渾々と湧き出て尽きない豊穣。
いい作品が、みんなにありますように。