ひとつところに、お芝居を観たい人たちがぎゅうぎゅう集まって、一定の期間だけ、そこにいたお客さんとお芝居の役者だけが「共有する」愉しみ。それがお芝居のだいご味・・・・なわけですから、コロナ禍の広域化の定義に、てきめんに合致してしまうわけです。
面白いお芝居なんかは、確かにテレビやオンデマンド経由でも、大いに引き付けられるものですが、お芝居というのは「本」にも似たよろこびがありってですね、主役が中央で大いに目線を奪うさなかにも、わき役が舞台のすみっこで、こっそりアドリブしてたり、カメラから見切れたところでひょっこり面白い仕組みがしつらえてあったりと、「自分が観たい方向を向いてみたら、けっこうおもしろいことが仕込んである」という、アドレスフリーに、任意なところがすっごく魅力的だったりします。
本なんかもそうですよね、自分が読みたくて、気に入ってるページだけに、スイと開いて何度も読む。それはラジオやテレビ、映画などの「時間経過メディア」では、作り手のペースに委ねさせられてます。お芝居も、本も「自分がフォーカスしたいところ」に意識を持っていける自由度が高いのですよね。
お芝居って、筋だけ追ってるんじゃなくって、日々体調や掛け合いで変化してるから「毎回初上演!」ってくらいに溌溂とした「現在進行形」を演者ともども味わえます。しかも「2度と同じはない」という貴重さで。
ある意味、これから先の「新しい形の芝居」のスタイルが生まれるときなのかも。桟敷席とか難しくなるかもしれないけれど、従来のお芝居以外にも「コロナ禍で生まれたお芝居」が加わるくらいの気位で、どうか突破口を手繰っていただきたい。お芝居にはそういうバイタリティが、昔からあったのですから。「現在で止まる」様式でおさまらぬ自由度こそ、お芝居の貫禄じゃないですか。
記事になるくらい注目されてるってことですよ。自信もって。きっと大丈夫。
P.S 「お芝居好きなんデー」くらいの軽い気持ちで、下手なクラスター起こす不埒な劇団や「従来の芝居こそが俺たちのスタイルなんだから、罹患覚悟でやろうぜ!」みたいに不勉強でセンス内糞馬鹿野郎は、芝居から離れてください。誠意持って芝居の再構築を業界全般で生み出そうというときに、些末な動機で「芝居は駄目だ」と言わせるとっかかりを渡すような輩は、芝居する資格もセンスもありませんわ。
昔慣れ親しんだ日本という文化様式を懐かしんでくれる、世界にはそういう視線で日本を見てくれる指導者が時々いてくれます。台湾の元総統という、中華民国の民主化の礎に尽力した懸命な方がいてくれたことだけで、どんなに心強いことだったか。
日本は「中華民国」を見捨てるという政治をしました。かつて「日本人」として育った人ごと、「祖国日本」が切り離したというのに、李登輝さんのなんと器の大きいことか。
アジアの国には「自分の国以外にはあまり親近感を示さない」傾向が強いと思います。中国、朝鮮半島、日本もそうですが、「外国に親近感を示してもらえない」ことの方が強いのは、本当は悲しいことです。そのさなかにあっても、李登輝さんのような姿勢が、一抹の希望を呼び寄せてくれます。
「その人が、外国の、そこにいてくれてよかった」って思える日本人ってどれだけいるでしょうね。亡くなられてから、強くその人を惜しむ気持ちが重なるなんて。
ご立派なお仕事をされました。ゆっくりなさってください。中華民国、台湾、日本人としての敬意を表します。ありがとうございます。
さんざ苦心惨憺し、こまごまとアクセサリー類を探し出し、手に入れ、試しに試して、ついに今日決着しました。
私のカーステには、iPhoneコネクトできませんわ。
古いカロッツェリアだもんな。むしろiPod classicとの方が相性がいいみたい。
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