昨日、5月5日にカトリック初台教会で知り合いの方の司祭叙階式があった。聖歌隊での関係者だったからみんなでそろってお祝いに出かけたのである。
非常に久しぶりに初台教会を訪れたので、交通も時間もわからず、いつになく早起きして早々と家を出たので着いたのも当然早かった。途中で一緒になった聖歌隊の知人と二人、聖堂に入ってみるとまだ誰もいなくて、玄関のそばで式の来客案内の準備が始まったばかりだったから、知人は聖堂でお祈りを始め、当方はせっかくなのであちこち写真を撮ってまわっていた。(ハハ、このへんからして姿勢が違いますなあ)
式は滞りなく終了し、記念写真も撮られ、お祝いの席へ。そのあいだに好奇心満々のおばはんとしては気になることがいくつかあって、聖歌隊の別の知人に聞いてみたのである。この会は見たところは若い人が多いね。これでも高齢化で入会者がいない? ふーん、でも、これなら最近のsjよりは若い人が多く感じるな。sjは本当に高齢者ばかりになってきた感じ。などなどとおしゃべり。
レセプションの時も今、若い神父様たちは大司教さまの派遣で東北の被災地に出かけているのだとかで、顔見知りの方々の消息を聞いたりしていたわけだ。おかげで、日常の瑣末な自分の問題から抜け出て教会全体の問題に心が向いていく結果になった。
まあ、教会も確かに人間の集まる社会だから、一般社会と大差ない面もあるが、やはりそれだけではない。それだけだったら、昨日司祭に叙階された知人だって、わざわざ修道院に入ったり、司祭を志したりはしていないだろう。
当方にしても、世間知らず過ぎたことを差し引いても、何十年も観想生活を希望したりはしなかったと思う。さすがに今となっては現実に可能なものを考えるしかないと思うようにはなったわけだが。で、帰り道、聖歌隊のメンバーたちでかたまって初台駅を目指して歩きながら、朝一緒になった知人にそのはなしをして、どうしたらいいと思うかと訊いてみた。彼女の答えは祈るしかないと思う。祈って答えを願い求めるしかないというのであった。なるほど、と改めて思ったものだ。
当方も昔のように祈らなくなっていたのを感じるが、昨日の叙階式に行ったおかげで、なんとなく見え始めたこともある。sjの高齢化、入会者不足、それってもしかして、今のsjがあまり深い宗教性を感じさせなくなっていることと関係はないのだろうか。車の両輪のようなもので、社会活動もそれは大事ではあるのだけれど、それを可能にするのは心の深みからの促しではないのか。失礼を承知でこんなことを言わずにいられないのは、遥か昔のsjを覚えているからだ。
今、祈りということで思い出すのは昔、sjの司祭に教わったことの数々だ。記憶の中のsjの祈りの指導だ。実際の行動を生み出す心のエネルギーは、月並みな言葉でいえば『愛』以外にはないのである。もっとも、この『愛』という言葉自体が、実は日本人には理解しにくいのだが。
愛し、愛されるということは、別に男女の性愛の専売特許などではないのだ。もっと深く、広く、物事のすべてを包み込むもの、それがなければ誰一人生きていられない(だから日本では自死者がやたらに多いのかもしれない)もの。祈りにおいての『愛』はもしかすると過去の経験が大切なのかもしれない。愛されたことが無いと、愛することもできないのかもしれない。記憶の中の『愛』が土台になって新しい『愛』を生み出していくのだ。『愛』は学ばなければ身につかないのだ。
自分が周りの人たちに大切にされ、関心をもたれてきた記憶が、今度はほかの人たちへの配慮になり、神への『愛』にも変わっていく。『愛』は命を、存在を支えている力。働き。それは聖霊の働き。
ここで当方も大変なことに気がついた。今回の大地震、大津波、原子力発電所の大事故、何万という人の死や苦しみ、悲しみ、神様が愛ならなぜこんなことになるのだと、ずっと疑問に思っていたのだが、神様の愛は人間の基準では測れないようなものだったのだ。千年も一日のようなお方の考えることが、朝生まれて夕方には一生が終わる蜻蛉のような存在でしかない人間にわかりきることなどできるわけがないということだったのか。神の愛、聖霊の働きは今も続いていて、人間にはそれをすべて理解することをではなくて、信じることが求められているということなのだなあ。
そうか、これからどうなっていくのかはわからないが、なんとなくやる気が湧いてきたぞ。