※ ひとつ訂正します。 神を見た、ではなくて、神にふれた、とあったのだと思い出しました。
考えている。昔々、ボネット神父の研究室の壁に、大きなポスターのような絵が貼ってあって、そこに「神を見た。息も出来ぬ」という言葉が書かれていた。あれはライフ神父がお亡くなりになった時だ。その言葉は今も忘れない。
ボネット神父の研究室に貼ってあった言葉は、もっと昔、子供の頃に神様はどんなお方なのかと考えていた時にはたと感じた事と同じようだったからだ。「神を見た。息も出来ぬ」。 だって、宇宙の果ての果ての果てを想像してもそれより更に遥かに大きな存在だよ。
神様は人間の思いどうりに動くほどちっぽけな存在ではないんだ。とてつもなく大きな、時間も空間もあらゆるものを超える存在の前に、人間は自分がどんなものか思い知らされる。まさに息も出来ぬ思いになるさ。真の神は人間の思いを超えたお方だ。
以上は、別のところに書き込んだもの。多分、これを先に出さないと読んだ方々はただでさえ誤解なさる可能性の高い話に、さらに誤解を積み重ねそうな気がする。わからない方にはどうせわからないとは言いたくない。少しでも理解しあう努力も必要ではないか。そう思って、出してみた。
全体を俯瞰してみると、どうもこれはまったく信じがたいことではあるのだが、日本のカトリック教会が何一つ見ようとしてこなかったときに、すでにIT業界、少なくともgoogleさんにいた何人かの方々は真相に気がついていたのだろうと思う。
同時にあの頃、うまく当方の存在を利用して自分の利益を図ってきた方が、msやyahooの一部に手伝わせて、こちらのパソコンに度々侵入させて、パスワードなどの書き換えをしてくれていたとしか思えない。何しろ、その方の入院、引退と同時にあの辺からの手出しがぱったり消えた。
日本のケータイもガラパゴスだが、日本のカトリック教会もガラパゴス的な存在なのではないか。人口の1パーセントではそれも仕方がないが。しかし、教会が何も見ようとしなかった頃からgoogleは当方の存在にも気がついていたらしいではないか。 だいたい、いくらこちらが本来、機械音痴の中高年のおばはんだからといって、どうして新品の機械を使い始めたとたんに、機械の主導権をめぐって、msとgoogleのクッキー同士の熾烈な戦いが始まったりしたのだ?
どう考えてもこれは機械からこちらの情報を手に入れるための主導権争いだったとしか思えない。当方、本物の機械音痴だから、デザインがどんなに素敵でもアップルでは使い方がわからないという単純な理由でずっとウインドーズなのだが、その狭い範囲で考えてもこんなことがざらにあることとは思いにくい。
セキュリティをいくら強く設定しても勝手にどこかの誰かさんたちが解除してしまうというのは一般的なことなのかね? こちらもついにはあきらめて、半分同居を容認。実害の出ないようなものにしかパソコン経由の取引はしない。どこのだれが 読んでも構わないこと以外はよほどでない限り書かない。(時々、よほどもあるけれど)といった状況で今日まで来ている。
そしてだ、現在のパパ様、ベネディクト16世になってからのヴァチカンはどうだ。当方、youtubeは結構以前から始めている。高円寺教会の皆様には大司教様の講演時のビデオで文句を言われて削除したりもしているが、普通はそれよりも、教会や神学院の宣伝効果に役にたっていることのほうが多いはずだ。
で、youtubeはすでに使っていたので、ヴァチカンがfacebookを推薦した時も早速、登録した。ただ、当時は英語中心だったから、登録しただけでそのまま抛ってあったわけだ。 しかし、googleもfacebookもヴァチカンとあれこれつながっている形跡が見られるし、そのままにしておいておいたところ、だんだんと,facebookも知名度が上がって日本語が使えるほどになった。
googleはいつの間にかアンドロイドでのし上がってくるし、時がたつにつれ、IT業界の流れも大きく変わってきている。 これはどのように考えたらよいのだろう。どう、考えるべきか。
どうも今の日本のカトリック教会には残念ながら広い視野から物事を見通せる方はあまりおいでにならないような気がする。ほんとにガラパゴスなのかも。どうしようもないのかなあ。
ヨーロッパや中南米のカトリック教会と日本の教会では歴史もまったく違うし、それは安易に向こうの歴史から生まれてきた、新求道共同体の考え方やあり方を受け入れられないのは当然だ。しかし、このままでいくと上の方々が会議ばかり開いているうちに、日本のカトリック教会は沈没してしまいそう。
今回の日本の受けた大災害は、何の意味もないわけがない。これが何かひとつのきっかけになったりはしないのだろうか。地震王国の日本で、今回のようなことは今後もいつ起こらないとも限らないわけだが、先日のレデンプトール会士の叙階式以来、神様の大きさは人間に理解しきれるほどちっぽけなものではないということが、なぜか心に鳴り響いている。
いつ何があってもすべて神様の手の中にある。死んだり、苦しんだりするのはいやだが、それも全部神様のなさることなら、大丈夫、死んでもなんとかなる、痛みも苦しみも悲しみも神様の時間の基準ではあっという間だ。なんとかなるよ、と日本人に伝えていくことはできないものだろうか。
夢見る夢子の見た夢かもしれないが、そんなことを考える。