テレビが壊れてから、本当にテレビを見ることが少なくなった。テレビは壊れてしまっていても、jcomに入っているから電話もインターネットもjcomなので、パソコンや他のインターネット機器からテレビ番組自体は見たければ見られるのだ。ただ、今の季節はそれほどみたいものがない。秋の半ばになれば「相棒」が始まるはずだからそれは必ず見るが、あとはNHKの「ブラタモリ」と「ダーウィンが来た」に、あとはこれは見てみたいという時だけ見るNHKオンデマンドやシャーロックのような海外ドラマくらいか、いやあと時間がうまくあえば美の壺とグレーテルのかまどにLIFE人生に捧げるコントも時間に間に合えば見る。ニュースもパソコンで間に合うからテレビで見るのはこんなところだけだ。
ところが今季、テレ朝のやすらぎの郷が始まってからは、第1回目の放送からずっと番組のある月曜から金曜日までは毎日欠かさずインターネットやテレビ用のjcomのちっぽけなタブレットで見てしまっている。登場人物たちの年代よりは少しは下の年代なのに、見ていて共感するところ多々あるためだ。なぜかといえばやはり還暦を過ぎれば自分もそうだが、自分の周りの年上の親類や友人知人がどんどん亡くなっていくからだろう。
インターネットのSNSの友人でも日経ワガマガの時代のオーストラリアにいた方(日本人)日経の大変お世話になった上尾の方、アメブロの頃のアメリカの友人、いつの間にか年月が過ぎていくうちに一人欠け、二人欠け、気が付けばご病気の方も増え、自分も血圧は上昇気味で、足腰はヨタヨタ、頼りにしていた親も身内もまさに櫛の歯が欠けるようにこの世を去って行ってしまったではないか。甘ったれでなんでも人がやってくれるのを待っているだけだった人間もさすがに嫌でも自分で動かないとどうにもならならないとなって、死んだ母だったらこういう時はどうするかと考えて動きだすようになったところだ。現実的にならなければならないときは父を見習ってはダメなのだと思う。あの人は夢見る夢男さんだったから、私自身の中にも相当同じ要素があって、たびたび相手の都合のよいように利用されるばかりだった。これは決して良いことではないし、正義を振りかざすつもりもないが、自分で自分を守ろうとしなすぎるのはただのバカだ。
賢明にならなければ正しい方向を見誤ってしまう。今の年代になってやっとそんなことも分かってきたのだからどうしようもないが、とにかく、正しいおばはん、正しいおばあさんを目指そうと思う。人を何でもかんでも信じすぎず、でも大事な時には協力し合えるような人間にならなくてはならぬと思っている。
で、やすらぎの郷だが、今日のはなしを見ていてふと思ったのは、分かりきっているはずだったのに、改めて。善き人も悪しき人も必ずいつかは死んでいなくなってしまうという現実だ。嫌っても憎んでもお互いに嫌でもいつかはこの世からは出ていくのだ。それを考えていないとある方のようなバカなことをしてとんだ失敗もする。真実会いたいときにはもう相手はこの世にいないということだってある。
誰でも同じく、人生の手持ち時間は長くても百年ちょっと、うちの血統などは血圧は高いし、腎臓系統は弱いし、ガンも多い。とても百年は保ちそうもないが、せっかくだから生きているうちはせいぜいちゃんと生きたい。同じキリスト教でもカトリックだし、父がガンで入院したとき、プロテスタントの旧知の方に祈ってくださいと頼んで断られた時のようなことはこちらはしないぞ。信者じゃない人のためには祈るとは言えないと答えたのはバイブルバプテストの牧師夫人の知人。おそらく、長老派、監督派も同様かな。
でもそれでは神様の愛はどこにあるのだといいたい。それでは言いたくはないがイスラム過激派と大差ない考え方ではないのか。ここで文句を言っても始まらないが聖霊様は厳格な信仰のキリスト教徒だけではなく、生きとし生けるすべての人を包み込み生かしてくださっているのに、そんな狭い心を主張されても困るのだ。最近、フェイスブックで昔の知人の名を見つけたが知らん顔しておくことにした。今の段階では向こうの考え方は不明なのだ。バイブルバプテストから長老派の牧師になった人では、どう考えてもこの世ではお互いに折り合えない気がする。しかしこの人の友人で前記の牧師夫人のご主人の方の牧師はやたらに強くそんなことはおっしゃらないのだけど、これって個性の差ってことなのだろうか?
この話になるとつい長くなってしまう。確かにカトリックにはカトリックの問題もあるけれど、バイブルバプテストや長老派にも問題はあると思うのだ。多分本当の正しい答えはみんな揃って神様の御前に雁首を並べるときにはじめて正解が分かるような気がする。
みんなお互いに60代後半なのだが下手をするとぶつかり合いそうだ、カトリック内の問題と違ってこちらは非常にむずかしい。これはこの辺でやめておこうっと。
ところが今季、テレ朝のやすらぎの郷が始まってからは、第1回目の放送からずっと番組のある月曜から金曜日までは毎日欠かさずインターネットやテレビ用のjcomのちっぽけなタブレットで見てしまっている。登場人物たちの年代よりは少しは下の年代なのに、見ていて共感するところ多々あるためだ。なぜかといえばやはり還暦を過ぎれば自分もそうだが、自分の周りの年上の親類や友人知人がどんどん亡くなっていくからだろう。
インターネットのSNSの友人でも日経ワガマガの時代のオーストラリアにいた方(日本人)日経の大変お世話になった上尾の方、アメブロの頃のアメリカの友人、いつの間にか年月が過ぎていくうちに一人欠け、二人欠け、気が付けばご病気の方も増え、自分も血圧は上昇気味で、足腰はヨタヨタ、頼りにしていた親も身内もまさに櫛の歯が欠けるようにこの世を去って行ってしまったではないか。甘ったれでなんでも人がやってくれるのを待っているだけだった人間もさすがに嫌でも自分で動かないとどうにもならならないとなって、死んだ母だったらこういう時はどうするかと考えて動きだすようになったところだ。現実的にならなければならないときは父を見習ってはダメなのだと思う。あの人は夢見る夢男さんだったから、私自身の中にも相当同じ要素があって、たびたび相手の都合のよいように利用されるばかりだった。これは決して良いことではないし、正義を振りかざすつもりもないが、自分で自分を守ろうとしなすぎるのはただのバカだ。
賢明にならなければ正しい方向を見誤ってしまう。今の年代になってやっとそんなことも分かってきたのだからどうしようもないが、とにかく、正しいおばはん、正しいおばあさんを目指そうと思う。人を何でもかんでも信じすぎず、でも大事な時には協力し合えるような人間にならなくてはならぬと思っている。
で、やすらぎの郷だが、今日のはなしを見ていてふと思ったのは、分かりきっているはずだったのに、改めて。善き人も悪しき人も必ずいつかは死んでいなくなってしまうという現実だ。嫌っても憎んでもお互いに嫌でもいつかはこの世からは出ていくのだ。それを考えていないとある方のようなバカなことをしてとんだ失敗もする。真実会いたいときにはもう相手はこの世にいないということだってある。
誰でも同じく、人生の手持ち時間は長くても百年ちょっと、うちの血統などは血圧は高いし、腎臓系統は弱いし、ガンも多い。とても百年は保ちそうもないが、せっかくだから生きているうちはせいぜいちゃんと生きたい。同じキリスト教でもカトリックだし、父がガンで入院したとき、プロテスタントの旧知の方に祈ってくださいと頼んで断られた時のようなことはこちらはしないぞ。信者じゃない人のためには祈るとは言えないと答えたのはバイブルバプテストの牧師夫人の知人。おそらく、長老派、監督派も同様かな。
でもそれでは神様の愛はどこにあるのだといいたい。それでは言いたくはないがイスラム過激派と大差ない考え方ではないのか。ここで文句を言っても始まらないが聖霊様は厳格な信仰のキリスト教徒だけではなく、生きとし生けるすべての人を包み込み生かしてくださっているのに、そんな狭い心を主張されても困るのだ。最近、フェイスブックで昔の知人の名を見つけたが知らん顔しておくことにした。今の段階では向こうの考え方は不明なのだ。バイブルバプテストから長老派の牧師になった人では、どう考えてもこの世ではお互いに折り合えない気がする。しかしこの人の友人で前記の牧師夫人のご主人の方の牧師はやたらに強くそんなことはおっしゃらないのだけど、これって個性の差ってことなのだろうか?
この話になるとつい長くなってしまう。確かにカトリックにはカトリックの問題もあるけれど、バイブルバプテストや長老派にも問題はあると思うのだ。多分本当の正しい答えはみんな揃って神様の御前に雁首を並べるときにはじめて正解が分かるような気がする。
みんなお互いに60代後半なのだが下手をするとぶつかり合いそうだ、カトリック内の問題と違ってこちらは非常にむずかしい。これはこの辺でやめておこうっと。