今日もまた『やすらぎの郷』を引き合いに出すが、私にとってはこの作品、本当に考えさせられる勉強になっている作品だから当たり前だ。作中人物たちとは全くかけ離れた違う境遇でありながらこれだけ考えさせられるということは本を書いている倉本先生のすごさなのだろう。ドラマ自体を楽しみながら、そこに触発されて自分の内面を見直し整理しなおす感じだ。それはこの作品がすべての人が必ず通っていく道を描いているからだろう。それぞれの人がそれなりに各自の人生を生きているわけだが、共通する点もある。生まれて生きて出会い、関わり合って傷ついたり、傷つけられたリ、そこから学ぶか、そのまま倒れてしまうかは人それぞれだが、最終コースに近づいてくると、この先の残りの年月をどう生きるかという問題にかかわって、これまでの自分を見直さなくてはならないときがくる。要は今がそういう時だからなのだろう。
言いたくはないが、40年前、聖書バプテスト教会から出て、元々中高生の頃から朝のラジオ番組で聞いて感銘を受けていた霜山徳爾先生に影響されて行ってみたいと思っていたカトリック教会に実際に通い始めて以来今日まで、どうしてこうなってきたのか本当のところわけがわからない。神様のいたずらとでも思うしかない。ただ言えるのはこちらは父方も母方も古くから続いてきた田舎の人間で、都会の価値観とはかなり違う考え方だったのも問題だったのだろうと思う。その代わり、鎌倉時代からの田舎の古い寺町で生まれ育った父から受け継いだものとキリスト教の接点を嫌でも考えざるをえなかったともいえそうだ。
実際に何があったかというと、四ッ谷の教会に通っていたら、なぜか私が司祭を誘惑しようとするいかがわしい女性ということになってしまったのだ。これはさすがにとてつもない大ショックだった。詳しい事情は関係者のためにここでは言わない。でも父に話したら、昔の戯れ歌で「惚れていりゃこそ悋気もするがなんでもなければなんでもない」というのを教えてくれて、なんでもなければなんでもないんだよというのだった。それでもかなり後まで意味が分からなかったバカ娘なんだが、それはおとうさんよ、あなたがいつも「おまえが男だったらなあ、」とたびたび言っていたせいだと思いますねえ。こちらは一生懸命内面の男性化に努めてしまって、自分の外見が男性を引き付ける容姿だったとは気が付かなかったのにひどい話だ。いまやただのくたびれたおばはんだからこそ言えるはなしでもあるが。
この話がついこの間、面倒になって法務省の人権相談にまで話を持っていくまで相変わらず教会の中でまかり通っていたのだからたまったものではないではないか。関係者を責めるのは趣味にあわないからしたくない。でも、長年我慢してしまって黙っていたのは言ったら可哀想だという気持ちからだったんだが、どうせあちらは何にも考えてはいないのだろうな。自己主張と思いやりの兼ね合いはむずかしい。
とはいえ、この年月は無駄だったとは思わない。修道会に入りたいと思っていろいろ探して見ても自分の心にぴったり来るものがないことがわかるために必要な時間だったような気がする。私の中にある宗教的な感覚は父から受け継いだものだ。父の実父という人は実は僧侶だったのだそうだが、確かにあの人は普通のお父さんたちとは相当違っていた。良くも悪くも世間一般の人とは違っていたのだ。子供だからあまり言いたくはないが、あの人は伯母やうちの母方の祖父母、死んだ私の母たちがあの人の足りないところを補ってくれていたときはよかったんだが、支えを失い、自分でやっていかなくてはならないときに、それだけの能力がないから若宮の家も土地も人手に渡してしまった。ライフ神父様はわたしに、あなたは年寄りっ子ではないですかとおっしゃったが、実は年寄りっ子だったのは父だ。親である父がそういう人だったから良い面も悪い面もこちらが継いでしまった感じだ。
そんなわけで自分の内面にあるものにピンとくる場所をさがしていたら、なんと井上洋治神父様の風の家の思想のなかにあった。それと何と三井住友の住友の家祖の住友正友という方のことばにあった『正直・清浄・慈悲』を重んじることの大切さもだ。これって日本人の魂の中心にある神との出会いのためのキーワードなのだと思う。本来、昔の田舎の人なら自然と身についていた感覚だが、現代人にはむずかしい。
今回はこれだけはどうしても言いたいということだけ書いてみた。何といっても67歳、11月には68歳になるわけだが、これはさすがに、いい齢をしてのいい齢で、世間一般に通用するような話ではないが、でも一度は言っておかないといつまでたっても次に進めないから書いた。次回この話の続きを書くとすれば、超能力騒ぎはなぜ起こったかとか、宗教もお金がないと何もできない現実とか、それが行き過ぎて堕落したとか、いろいろタネはあるけれど本当に書いてもよいこと以外は書きたくないから当分はこの話はおいておく。以上
※ 本内容については、もし問題があるようでしたらこちらとしても、この際もう一度教皇様に直接申し上げてみようかと思っております。
言いたくはないが、40年前、聖書バプテスト教会から出て、元々中高生の頃から朝のラジオ番組で聞いて感銘を受けていた霜山徳爾先生に影響されて行ってみたいと思っていたカトリック教会に実際に通い始めて以来今日まで、どうしてこうなってきたのか本当のところわけがわからない。神様のいたずらとでも思うしかない。ただ言えるのはこちらは父方も母方も古くから続いてきた田舎の人間で、都会の価値観とはかなり違う考え方だったのも問題だったのだろうと思う。その代わり、鎌倉時代からの田舎の古い寺町で生まれ育った父から受け継いだものとキリスト教の接点を嫌でも考えざるをえなかったともいえそうだ。
実際に何があったかというと、四ッ谷の教会に通っていたら、なぜか私が司祭を誘惑しようとするいかがわしい女性ということになってしまったのだ。これはさすがにとてつもない大ショックだった。詳しい事情は関係者のためにここでは言わない。でも父に話したら、昔の戯れ歌で「惚れていりゃこそ悋気もするがなんでもなければなんでもない」というのを教えてくれて、なんでもなければなんでもないんだよというのだった。それでもかなり後まで意味が分からなかったバカ娘なんだが、それはおとうさんよ、あなたがいつも「おまえが男だったらなあ、」とたびたび言っていたせいだと思いますねえ。こちらは一生懸命内面の男性化に努めてしまって、自分の外見が男性を引き付ける容姿だったとは気が付かなかったのにひどい話だ。いまやただのくたびれたおばはんだからこそ言えるはなしでもあるが。
この話がついこの間、面倒になって法務省の人権相談にまで話を持っていくまで相変わらず教会の中でまかり通っていたのだからたまったものではないではないか。関係者を責めるのは趣味にあわないからしたくない。でも、長年我慢してしまって黙っていたのは言ったら可哀想だという気持ちからだったんだが、どうせあちらは何にも考えてはいないのだろうな。自己主張と思いやりの兼ね合いはむずかしい。
とはいえ、この年月は無駄だったとは思わない。修道会に入りたいと思っていろいろ探して見ても自分の心にぴったり来るものがないことがわかるために必要な時間だったような気がする。私の中にある宗教的な感覚は父から受け継いだものだ。父の実父という人は実は僧侶だったのだそうだが、確かにあの人は普通のお父さんたちとは相当違っていた。良くも悪くも世間一般の人とは違っていたのだ。子供だからあまり言いたくはないが、あの人は伯母やうちの母方の祖父母、死んだ私の母たちがあの人の足りないところを補ってくれていたときはよかったんだが、支えを失い、自分でやっていかなくてはならないときに、それだけの能力がないから若宮の家も土地も人手に渡してしまった。ライフ神父様はわたしに、あなたは年寄りっ子ではないですかとおっしゃったが、実は年寄りっ子だったのは父だ。親である父がそういう人だったから良い面も悪い面もこちらが継いでしまった感じだ。
そんなわけで自分の内面にあるものにピンとくる場所をさがしていたら、なんと井上洋治神父様の風の家の思想のなかにあった。それと何と三井住友の住友の家祖の住友正友という方のことばにあった『正直・清浄・慈悲』を重んじることの大切さもだ。これって日本人の魂の中心にある神との出会いのためのキーワードなのだと思う。本来、昔の田舎の人なら自然と身についていた感覚だが、現代人にはむずかしい。
今回はこれだけはどうしても言いたいということだけ書いてみた。何といっても67歳、11月には68歳になるわけだが、これはさすがに、いい齢をしてのいい齢で、世間一般に通用するような話ではないが、でも一度は言っておかないといつまでたっても次に進めないから書いた。次回この話の続きを書くとすれば、超能力騒ぎはなぜ起こったかとか、宗教もお金がないと何もできない現実とか、それが行き過ぎて堕落したとか、いろいろタネはあるけれど本当に書いてもよいこと以外は書きたくないから当分はこの話はおいておく。以上
※ 本内容については、もし問題があるようでしたらこちらとしても、この際もう一度教皇様に直接申し上げてみようかと思っております。