というわけで今、久しぶりにoperaを入れて使い始めている。このブラウザは相当安全は安全なのだが、その分、便利な機能は使えないことになるのが残念。plalaのBroachも、yahooのブログやSNSも、便利だが危険性も高いほかのブラウザのようには、完全に機能を使うことはできないというわけだ。安全をとるか便利さをとるかだ。
とはいえ、何度もリカバリーを繰り返させられてはたまらない。当分、安全優先でoperaを使おうと思っている。operaも結構使い勝手はよいブラウザだし、以前よりだいぶ進化していて、これならなかなかよいと思う。ブログの編集機能が使えないのは痛いが、この際仕方がない。
operaで気に入っているのは、このブラウザ、元々はペールギュントの国の産なのだ。ノルウェー製と思うと、なんとなくロマンを感じてしまうのはこちらが東洋の片隅の小さな島国の人間だからだろうか。 今、何度も試して見たところでは、自分でhtmlを書き込まないと段落の空きをとったり、下げたりもできないことが判明。少し、勉強しなくては。
ヨーロッパに今も残る古い石の建築物の数々は、それこそ地震が少ない地域だからこそ可能なもののわけで、フランスやスペインのあたりでの地震はあまり聞いたことがなかったような気がする。
ヨーロッパの原子力発電所の立地は地震が起こることは計算に入っていないのではなかったかしら。なんだか複雑な気分で始まった朝。
※ 注釈の多いブログだが、私の話などは後回しにお読みいただきたい。それよりも、もし、河野太郎さんのこのブログをご存知ない方がいらっしゃったら是非、こちらを先に読んでみて下さいませ。
本当に考えなくてはいけないのは何なのか、見直すよい材料になると思います。
http://www.taro.org/2011/05/post-1002.php
朝からひどい降りで、足の調子のよくない当方、出かけるのはやめにして、このところやっとわかってきたギャラクシータブの操作のあれこれをテストしてみていた。
パソコンに接続して、音楽や動画、写真のファイルを自由にあちこち移動させられるようになると、大体どこでどうなっているのかもわかってきた。大きさこそ違うのだが、これもウォークマンやipodなどと同じように、パソコンというメインの機械の持つさまざまな機能の一部を、こちらの小さな機械と同期することで、外に持ち運ぶことができるというわけだ。非常に面白い。
どちらかというとこれはパソコンの知識が多いほうが使いこなすのも早いのではないかと思う。つまり、若い人のほうが覚えやすそうだ。らくらくホンは日本のケータイ界の優秀作品だとは思うが、あのレベルではこちらはちょっと使いこなすまでに時間と訓練が必要そう。
本物のパソコンのタブレットを使っていた経験からみれば、アプリを多用する、スマートフォンのギャラクシータブというのは、かえって自由が利かずに不便に感じるところもあるが、大方はパソコンにないスピードで作業が進む。アプリは飾りではないことがよくわかった。
この数年、パソコンでは散々苦労させられてきたが、日経の知人が言っていたとおりで、問題パソコンでいやでもパソコンに詳しくならざるを得なかったおかげで、タブもさほど難しいと思わずに済んでいる。昨日、今日と連日取り組んでみて、うっかり間違えて削除してしまったファイルもあるし、やり直して見てやっと納得して、覚えた機能もある。今のところ、お遊びのつもりで、気にいっているものをダウンロードしたり、移動や変換を試したりしながら、使い方に慣れてきたところだ。
ただ、問題がひとつあって、パソコンで作ったgoogleアカウントやgmailアカウント、youtubeのアカウントをギャラクシータブが受け付けてくれないのはどういうことだろう。現に日常的にパソコンで使っているアカウントなのに、使えないのが不思議。それでいて、どうしても必要なショップなどでは入力して有効になるというのがこれまた不思議。何かこの機械ではまずいことでもあるのだろうか?
20数年のごたごたがあるから、いまさら何が起こっても驚きはしないが不便だ。
Waga友のブログに面白いものがあるのでご紹介。この方も、いけずな京女さんとおなじくWagaMaga以来の方で,facebookで再会しました。
※ ひとつ訂正します。 神を見た、ではなくて、神にふれた、とあったのだと思い出しました。
考えている。昔々、ボネット神父の研究室の壁に、大きなポスターのような絵が貼ってあって、そこに「神を見た。息も出来ぬ」という言葉が書かれていた。あれはライフ神父がお亡くなりになった時だ。その言葉は今も忘れない。
ボネット神父の研究室に貼ってあった言葉は、もっと昔、子供の頃に神様はどんなお方なのかと考えていた時にはたと感じた事と同じようだったからだ。「神を見た。息も出来ぬ」。 だって、宇宙の果ての果ての果てを想像してもそれより更に遥かに大きな存在だよ。
神様は人間の思いどうりに動くほどちっぽけな存在ではないんだ。とてつもなく大きな、時間も空間もあらゆるものを超える存在の前に、人間は自分がどんなものか思い知らされる。まさに息も出来ぬ思いになるさ。真の神は人間の思いを超えたお方だ。
以上は、別のところに書き込んだもの。多分、これを先に出さないと読んだ方々はただでさえ誤解なさる可能性の高い話に、さらに誤解を積み重ねそうな気がする。わからない方にはどうせわからないとは言いたくない。少しでも理解しあう努力も必要ではないか。そう思って、出してみた。
全体を俯瞰してみると、どうもこれはまったく信じがたいことではあるのだが、日本のカトリック教会が何一つ見ようとしてこなかったときに、すでにIT業界、少なくともgoogleさんにいた何人かの方々は真相に気がついていたのだろうと思う。
同時にあの頃、うまく当方の存在を利用して自分の利益を図ってきた方が、msやyahooの一部に手伝わせて、こちらのパソコンに度々侵入させて、パスワードなどの書き換えをしてくれていたとしか思えない。何しろ、その方の入院、引退と同時にあの辺からの手出しがぱったり消えた。
日本のケータイもガラパゴスだが、日本のカトリック教会もガラパゴス的な存在なのではないか。人口の1パーセントではそれも仕方がないが。しかし、教会が何も見ようとしなかった頃からgoogleは当方の存在にも気がついていたらしいではないか。 だいたい、いくらこちらが本来、機械音痴の中高年のおばはんだからといって、どうして新品の機械を使い始めたとたんに、機械の主導権をめぐって、msとgoogleのクッキー同士の熾烈な戦いが始まったりしたのだ?
どう考えてもこれは機械からこちらの情報を手に入れるための主導権争いだったとしか思えない。当方、本物の機械音痴だから、デザインがどんなに素敵でもアップルでは使い方がわからないという単純な理由でずっとウインドーズなのだが、その狭い範囲で考えてもこんなことがざらにあることとは思いにくい。
セキュリティをいくら強く設定しても勝手にどこかの誰かさんたちが解除してしまうというのは一般的なことなのかね? こちらもついにはあきらめて、半分同居を容認。実害の出ないようなものにしかパソコン経由の取引はしない。どこのだれが 読んでも構わないこと以外はよほどでない限り書かない。(時々、よほどもあるけれど)といった状況で今日まで来ている。
そしてだ、現在のパパ様、ベネディクト16世になってからのヴァチカンはどうだ。当方、youtubeは結構以前から始めている。高円寺教会の皆様には大司教様の講演時のビデオで文句を言われて削除したりもしているが、普通はそれよりも、教会や神学院の宣伝効果に役にたっていることのほうが多いはずだ。
で、youtubeはすでに使っていたので、ヴァチカンがfacebookを推薦した時も早速、登録した。ただ、当時は英語中心だったから、登録しただけでそのまま抛ってあったわけだ。 しかし、googleもfacebookもヴァチカンとあれこれつながっている形跡が見られるし、そのままにしておいておいたところ、だんだんと,facebookも知名度が上がって日本語が使えるほどになった。
googleはいつの間にかアンドロイドでのし上がってくるし、時がたつにつれ、IT業界の流れも大きく変わってきている。 これはどのように考えたらよいのだろう。どう、考えるべきか。
どうも今の日本のカトリック教会には残念ながら広い視野から物事を見通せる方はあまりおいでにならないような気がする。ほんとにガラパゴスなのかも。どうしようもないのかなあ。
ヨーロッパや中南米のカトリック教会と日本の教会では歴史もまったく違うし、それは安易に向こうの歴史から生まれてきた、新求道共同体の考え方やあり方を受け入れられないのは当然だ。しかし、このままでいくと上の方々が会議ばかり開いているうちに、日本のカトリック教会は沈没してしまいそう。
今回の日本の受けた大災害は、何の意味もないわけがない。これが何かひとつのきっかけになったりはしないのだろうか。地震王国の日本で、今回のようなことは今後もいつ起こらないとも限らないわけだが、先日のレデンプトール会士の叙階式以来、神様の大きさは人間に理解しきれるほどちっぽけなものではないということが、なぜか心に鳴り響いている。
いつ何があってもすべて神様の手の中にある。死んだり、苦しんだりするのはいやだが、それも全部神様のなさることなら、大丈夫、死んでもなんとかなる、痛みも苦しみも悲しみも神様の時間の基準ではあっという間だ。なんとかなるよ、と日本人に伝えていくことはできないものだろうか。
夢見る夢子の見た夢かもしれないが、そんなことを考える。
先の見通しのつかない閉塞感の中にいるという点では当方の立場も同じだから、それなりに気分転換の必要があるのは確かだった。だから、ご近所のdocomoショップで新規なら本体無料、wifi付きでセールをしているのを見て、2年縛りは覚悟で新しい機械を購入した。ただし、なにぶん今は最低の収入しかないから、その範囲で支払うことのできるような契約内容を考えてもらった。
これが自分の生活にとって良いか悪いかはまだわからない。それでも新しいものが何もない閉塞感の中では今以上に気持ちが暗くなるばかりだったに違いないと思う。ただ、予想外だったのが、新しい機械を買ったその日に大震災に大津波に原子力発電所の事故というとてつもないアクシデントが起こり、家のパソコンが地震で落ちたのもまずかったのかちょっと故障しかけていて、修理に出すには今は費用がないから、壊れるまで使うしかない状況なのは参っている。まあ、完全にだめになったらとりあえずplalaを解約して、次をどうするか考えるしかないが、今はデータ通信もあるから最低限の必要には困らない筈だ。
というわけで、ギャラクシータブだが、実際に使い始めてみてわかったことは、スマートフォンというのは単体で使うというより、メインのパソコンに同期して動くものなのだということだった。すぐに結果に出てきたのがtwitterのアカウントだった。タブでは二つのアカウントの切り替えができず、結局パソコン頼みになっている。これは普通のケータイにはなかったことで、ちょっと驚いた。
まだお遊びに使いながら、どこをいじるとどうなるのか覚えていくところだ。twitterはいまいちだが、facebookではかなり使える。yahooブログやSNSは読んでコメントを書くくらいで、本文のテキスト作成は出来ない。twitterもフォロワーの人数が2~300人くらいならちゃんと使えるのだろう。1000人を超えて常駐アプリを置いておくと、電池の消費が激しくなりすぎるようだ。
ネットで最新のニュースを見るには文字の大きさもちょうどよく設定できるし、なんといっても解像度の良さは素晴らしい。長いドラマでもダウンロードできるのも驚きだ。ただ、問題はmsのパソコンとあまり仲良くしてくれないのが、何かとネックになっている。私のパソコンは初代を買ったそのはじめからmsとgoogleのクッキー同士の戦場だったのだから、こりているのだがどうにもしようがない。(msもgoogleもパソコンなしの生活になれば何の関係もなくなるわけだ。いざとなればこちらはそれでもかまわないのだが)
貧しさとは相反するような料金支払いでも、今は一種自分にとってのネタになる以上、新しい機械くらいは無理しても使いたいと思っている。ただし、無ければ無いでも構わないという心の自由さも常に持ち合わせていたいとも思っている。その二つの思いの中間で生きているというわけだ。
犬は、人間さまのご要望とあらば、飛行訓練だって、パラシュート落下訓練だって受けるのだが、ニャンコは決してそんなことはしない。ニャン族の得意技はこんなところなのにゃん。
昨日、5月5日にカトリック初台教会で知り合いの方の司祭叙階式があった。聖歌隊での関係者だったからみんなでそろってお祝いに出かけたのである。
非常に久しぶりに初台教会を訪れたので、交通も時間もわからず、いつになく早起きして早々と家を出たので着いたのも当然早かった。途中で一緒になった聖歌隊の知人と二人、聖堂に入ってみるとまだ誰もいなくて、玄関のそばで式の来客案内の準備が始まったばかりだったから、知人は聖堂でお祈りを始め、当方はせっかくなのであちこち写真を撮ってまわっていた。(ハハ、このへんからして姿勢が違いますなあ)
式は滞りなく終了し、記念写真も撮られ、お祝いの席へ。そのあいだに好奇心満々のおばはんとしては気になることがいくつかあって、聖歌隊の別の知人に聞いてみたのである。この会は見たところは若い人が多いね。これでも高齢化で入会者がいない? ふーん、でも、これなら最近のsjよりは若い人が多く感じるな。sjは本当に高齢者ばかりになってきた感じ。などなどとおしゃべり。
レセプションの時も今、若い神父様たちは大司教さまの派遣で東北の被災地に出かけているのだとかで、顔見知りの方々の消息を聞いたりしていたわけだ。おかげで、日常の瑣末な自分の問題から抜け出て教会全体の問題に心が向いていく結果になった。
まあ、教会も確かに人間の集まる社会だから、一般社会と大差ない面もあるが、やはりそれだけではない。それだけだったら、昨日司祭に叙階された知人だって、わざわざ修道院に入ったり、司祭を志したりはしていないだろう。
当方にしても、世間知らず過ぎたことを差し引いても、何十年も観想生活を希望したりはしなかったと思う。さすがに今となっては現実に可能なものを考えるしかないと思うようにはなったわけだが。で、帰り道、聖歌隊のメンバーたちでかたまって初台駅を目指して歩きながら、朝一緒になった知人にそのはなしをして、どうしたらいいと思うかと訊いてみた。彼女の答えは祈るしかないと思う。祈って答えを願い求めるしかないというのであった。なるほど、と改めて思ったものだ。
当方も昔のように祈らなくなっていたのを感じるが、昨日の叙階式に行ったおかげで、なんとなく見え始めたこともある。sjの高齢化、入会者不足、それってもしかして、今のsjがあまり深い宗教性を感じさせなくなっていることと関係はないのだろうか。車の両輪のようなもので、社会活動もそれは大事ではあるのだけれど、それを可能にするのは心の深みからの促しではないのか。失礼を承知でこんなことを言わずにいられないのは、遥か昔のsjを覚えているからだ。
今、祈りということで思い出すのは昔、sjの司祭に教わったことの数々だ。記憶の中のsjの祈りの指導だ。実際の行動を生み出す心のエネルギーは、月並みな言葉でいえば『愛』以外にはないのである。もっとも、この『愛』という言葉自体が、実は日本人には理解しにくいのだが。
愛し、愛されるということは、別に男女の性愛の専売特許などではないのだ。もっと深く、広く、物事のすべてを包み込むもの、それがなければ誰一人生きていられない(だから日本では自死者がやたらに多いのかもしれない)もの。祈りにおいての『愛』はもしかすると過去の経験が大切なのかもしれない。愛されたことが無いと、愛することもできないのかもしれない。記憶の中の『愛』が土台になって新しい『愛』を生み出していくのだ。『愛』は学ばなければ身につかないのだ。
自分が周りの人たちに大切にされ、関心をもたれてきた記憶が、今度はほかの人たちへの配慮になり、神への『愛』にも変わっていく。『愛』は命を、存在を支えている力。働き。それは聖霊の働き。
ここで当方も大変なことに気がついた。今回の大地震、大津波、原子力発電所の大事故、何万という人の死や苦しみ、悲しみ、神様が愛ならなぜこんなことになるのだと、ずっと疑問に思っていたのだが、神様の愛は人間の基準では測れないようなものだったのだ。千年も一日のようなお方の考えることが、朝生まれて夕方には一生が終わる蜻蛉のような存在でしかない人間にわかりきることなどできるわけがないということだったのか。神の愛、聖霊の働きは今も続いていて、人間にはそれをすべて理解することをではなくて、信じることが求められているということなのだなあ。
そうか、これからどうなっていくのかはわからないが、なんとなくやる気が湧いてきたぞ。