7月7日(木)と9日(土)は豊橋で講演会があります。今はその準備中で、色々やることがあります。今日は午前中に市役所に行って、保育園のチラシを保育課に、小中学校のチラシを学校教育課のポストに入れさせてもらってきました。段ボール箱10箱くらいはあったかな・・・。すごい数でした。
本当はお昼からポスター貼りに行くつもりでしたが、疲れてしまって家で休憩することにしました。それで、代わりに準備になることをしようと、榊原陽著 「ことばを歌え!こどもたち」の12章、創造のふるさとは未来に、を読みました。この本は何回目かですが、以前にしるしをつけた同じところにやはり心を動かされることもあるし、全く違うところにひかれることもあります。
おとつい、ウィライファミリーに行きました。ウィライが講師をするというので、その準備のファミリーでした。そのとき、今度豊橋に講師として来てくれることになっている、くりちゃんがまとめた、講演会をなぜやるのか?という紙を見せてもらい、講演会をやることをなんとなく口にすることはあっても、ちゃんと文字にすることはないなあと、気づきました。
それで自分なりに何だろうと考えてはいたのですが、今日、読んだところに、まさに的を得た部分がありました。ヒッポという名前を聞いたことがある人はたくさんいて、またそこが多言語活動をしているということは知っていても、それがいかに楽しく面白く素晴らしい活動であるかということを知っている人は少ないんですよね。
196ページからの抜粋です。
「人間の言語行為は、より小さい意味単位が、より大きい意味単位(脈絡)にとりこまれながら、未来に意味像をみつけ、表現してゆく系なのである。その脈絡は常に未来に向かって開かれていなければならない。その系はいずれのレベルであっても閉ざされた途端に、言語例に化して意味内容は空疎化するのである。
たとえば、ここに、ハイゼンベルグの『部分と全体』という一冊の本がある。そこにどんなすばらしいことがかかれていようが、それが開かれぬまま本棚にある限り、内容は空虚なのである。その本がひとたび人の手に取られ、開かれ、読まれたときに、読み手の理解するという創造行為を通じて、はじめてそのすばらしさが、意味像が読み手の脳裡に実現するのである。講演を聞いている聴衆の場合と同じように。十人の読者は、それぞれのれべレルで、理解するという行為を通じて、十人十様の意味像を創造するのである。」
自分たちの中でどれだけ素晴らしい活動かをしっていても、一般の人に話していかない限りはやっていないと同じ事。講演会という場で、新しい人に向かって活動を伝えていくことをしない限りは、活動をやっていないと同じ事。常に人に向かっていくことが言語行為なんですね。
そして、もうひとつ、気になっていたことがありました。やはりくりちゃんのチラシのコメントなんですが、「言葉を話すということは生きることとつながっているんだ」というところに引っかかっていたのですが、なんとなく、この中に答えがある様な気がしてきました。
また、「多言語をやることはどんなことなんだろう?」とこれもおとついの準備会で話が出たので気になっていたことですが、「いわゆる言語そのものの習得が人間の目標ではないだろう。新しい言葉に出会うことで、新しい自分を見つけ創り出すのである。」
「言語習得という一見受身の表現の真に意味するところは、一転して言葉を見つけ、新しい自分の世界を創り出すという能動的な創造行為であることも見てきた。」
多言語習得は自分の中に多言語を取り入れるところが終点ではなく、多言語を取り入れた新しい自分が新しい世界を見つけていくこと。昨日の自分より今日の自分は広く深く豊かに世界を見ることができるようになる、そんな活動なんですね。
たとえばマレーシア語に、四季を表す言葉がなく、乾期、雨期、暑い季節などと表現することを知れば、日本には四季があり、私たち日本人は四季を楽しむすべをたくさん知っていることに気づきます。
当たり前が当たり前ではないことに気づき、ことばや文字で表現できるようになること--新しい自分との出会いでしょう・・・多言語をやっていると日々面白いことに気付きます。