9月10日(日)ウィーン国立歌劇場オペラ公演
ウィーン・シュターツオーパー
【演目】
モーツァルト/歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621
【配役】
ティート:マシュー・ポレンザーニ/ヴィッテーリア:フェデリカ・ロンバルディ/セルヴィーリア:スラヴカ・ザミクナイコーヴァ/セスト:ケイト・リンジー/アンニオ:パトリシア・ノルツ/プブリオ:ペーター・ケルナー/ベレニーチェ:アメル・パリス
【演奏】
パブロ・エラス=カサド 指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団/ウィーン国立歌劇場合唱団
【演出】ユルゲン・フリム
【舞台】ジョルジュ・ツィピン 【衣装】ビルギット・フッター 【照明】ヴォルフガング・ゲッベル
(拡大可)
WIENER STAATSOPER
各座席に取り付けられた字幕ディスプレイ
モーツァルトが最晩年に作曲したオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」は、上演される機会も滅多にないし、モーツァルトのやっつけ仕事みたいに云われたりする。そんなわけで「モーツァルト命」なんて云いながら、僕はこのオペラをライブはおろか録音や録画でも一度も接して来なかった。今回の旅行でウィーン滞在中にシュターツオーパーで上演される演目に「ティート」が入っていたので、滅多に観ることの出来ないこのオペラをこの機会に観ることにした。そしてこの選択は大正解だった!
レチタティーヴォはモーツァルトによるものではないそうだが、数々のアリア、重唱や三重奏、そこに合唱も加わる多彩な編成の音楽はどれも本当に美しく、晩年のモーツァルト節も聴かれ、何よりも全体がモーツァルトの愛に溢れている。皇帝の戴冠を祝うために書かれた台本自体は単純なおめでたい内容だが、モーツァルトはこの台本から「魔笛」や「フィガロ」にも通じる姿勢で、各人物を生身の人間として扱い、愛情深い人物像を描き出していることを実感した。
今夜の出演者たちは、そんなモーツァルトの珠玉の作品の真髄を最高のパフォーマンスで聴かせてくれた。全幕を通じて終始魅了したのは、エラス=カサド指揮のウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏。モーツァルトは歌唱パートのみならず、それを日に影にサポートし、引き立てるオーケストラパートに何と素晴らしい音楽を与えたことか。今夜のオケの演奏は、呼吸といい、入りや収まりの佇まいといい、デリケートな表情付けといい、どれもが繊細で、瑞々しく息づいていてホレボレと聴き入ってしまった。
オーケストラと共に歌った歌手陣も皆素晴らしかった。なかでもセスト役のリンジーは最高の歌を聴かせた。聴き手をはっとさせる艶と存在感のある磨かれた声で、変わることのないこの役の誠実さを伝えた。最弱音による親愛の情の表現が、何と豊かな表現力を湛えていたことか。モーツァルトがシュタードラーの依頼で入れたというクラリネットのオブリガートが付く、ヴィッテーリアへのひたむきな思いを歌うアリア「私は行く」では、歌の素晴らしさと共に、美しくとろけるようなクラリネットに心惹かれた。
タイトルロールのティートを歌ったポレンザーニは、しなやかでかつ柔らかくよく通る声で、心優しき統治者としての貫禄を印象付ける一方で、繊細で揺れる心を美しい弱音で敏感に表現していた。ヴェッティーリア役のロンバルディも好演。この役は、台本だけでは周りを困難に巻き込む単なる自己中女だが、モーツァルトはこの人物をそうは描いていないことを彼女は見事に歌で示した。ティートを暗殺する理由が無くなったときのうろたえの表現など、嘘偽りない本気度が伝わってきた。最終盤で、ヴェッティーリアへ訴えるザミクナイコーヴァが歌うセルヴィーリアのアリア「涙以外のことを」から伝わる熱いハートも胸に沁みた。この歌があってこそ、ヴェッティーリアが自白を決心したと納得できる歌だ。
物語を現代に読み替えた演出は、よくわからないシーンがいくつもあった。このオペラで何を伝えたいかは、モーツァルトの音楽が全てを物語っているし、出演者はモーツァルトの意図を演奏で体現していた。だから余計な小細工でモーツァルトの意図を損ねてしまうのは嬉しくない。例えば慈悲深いティートが、セストを死刑にすべき状況にも関わらず、それを決められずに揺れているときに、ティートがセストの頭に銃を突きつけるような演出はナンセンス。合唱に、物語の外にいるように譜面台を使わせたり、ポップで派手な格好のエキストラが度々舞台で書き割りを動かしたりする意味もよくわからなかった。ただ、全体の物語の流れや登場人物の気持ちに反するような演出とまではいかず、作品を壊してしまうことがなかった点はよかった。
それまでも要所で輝かしい存在感を発揮してきたウィーン国立歌劇場合唱団による、目の醒めるような晴れやかに響く合唱が加わった終曲は、「魔笛」のエンディングのような堂々とした風格を湛えてオペラを締めた。感動がジワリと熱くこみ上げた。
大喝采とブラボーが続き、それが鳴り止んだあとも最上階の数人の観客が熱心に拍手を続けていたら、再び出演者達がステージに登場し、会場にまた拍手が沸き上がった。僕もブラボーコールに参加した。
エラス=カサド指揮 NHK交響楽団(2019.12.12 サントリーホール)
ウィーン国立歌劇場公演「さまよえるオランダ人」(2015.9.11)
(順次更新予定)ウィーン&ベルリン音楽の旅(2023)
ウィーンとベルリンで訪れた演奏会&オペラ(2009)
♪ブログ管理人の作曲のYouTubeチャンネル♪
最新アップロード:「かなりや」(詩:西條八十)
拡散希望記事!
コロナ禍とは何だったのか? ~徹底的な検証と総括を求める~
コロナ報道への意見に対する新聞社の残念な対応
やめよう!エスカレーターの片側空け
ウィーン・シュターツオーパー
【演目】
モーツァルト/歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621
【配役】
ティート:マシュー・ポレンザーニ/ヴィッテーリア:フェデリカ・ロンバルディ/セルヴィーリア:スラヴカ・ザミクナイコーヴァ/セスト:ケイト・リンジー/アンニオ:パトリシア・ノルツ/プブリオ:ペーター・ケルナー/ベレニーチェ:アメル・パリス
【演奏】
パブロ・エラス=カサド 指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団/ウィーン国立歌劇場合唱団
【演出】ユルゲン・フリム
【舞台】ジョルジュ・ツィピン 【衣装】ビルギット・フッター 【照明】ヴォルフガング・ゲッベル
(拡大可)
WIENER STAATSOPER
各座席に取り付けられた字幕ディスプレイ
モーツァルトが最晩年に作曲したオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」は、上演される機会も滅多にないし、モーツァルトのやっつけ仕事みたいに云われたりする。そんなわけで「モーツァルト命」なんて云いながら、僕はこのオペラをライブはおろか録音や録画でも一度も接して来なかった。今回の旅行でウィーン滞在中にシュターツオーパーで上演される演目に「ティート」が入っていたので、滅多に観ることの出来ないこのオペラをこの機会に観ることにした。そしてこの選択は大正解だった!
レチタティーヴォはモーツァルトによるものではないそうだが、数々のアリア、重唱や三重奏、そこに合唱も加わる多彩な編成の音楽はどれも本当に美しく、晩年のモーツァルト節も聴かれ、何よりも全体がモーツァルトの愛に溢れている。皇帝の戴冠を祝うために書かれた台本自体は単純なおめでたい内容だが、モーツァルトはこの台本から「魔笛」や「フィガロ」にも通じる姿勢で、各人物を生身の人間として扱い、愛情深い人物像を描き出していることを実感した。
今夜の出演者たちは、そんなモーツァルトの珠玉の作品の真髄を最高のパフォーマンスで聴かせてくれた。全幕を通じて終始魅了したのは、エラス=カサド指揮のウィーン国立歌劇場管弦楽団の演奏。モーツァルトは歌唱パートのみならず、それを日に影にサポートし、引き立てるオーケストラパートに何と素晴らしい音楽を与えたことか。今夜のオケの演奏は、呼吸といい、入りや収まりの佇まいといい、デリケートな表情付けといい、どれもが繊細で、瑞々しく息づいていてホレボレと聴き入ってしまった。
オーケストラと共に歌った歌手陣も皆素晴らしかった。なかでもセスト役のリンジーは最高の歌を聴かせた。聴き手をはっとさせる艶と存在感のある磨かれた声で、変わることのないこの役の誠実さを伝えた。最弱音による親愛の情の表現が、何と豊かな表現力を湛えていたことか。モーツァルトがシュタードラーの依頼で入れたというクラリネットのオブリガートが付く、ヴィッテーリアへのひたむきな思いを歌うアリア「私は行く」では、歌の素晴らしさと共に、美しくとろけるようなクラリネットに心惹かれた。
タイトルロールのティートを歌ったポレンザーニは、しなやかでかつ柔らかくよく通る声で、心優しき統治者としての貫禄を印象付ける一方で、繊細で揺れる心を美しい弱音で敏感に表現していた。ヴェッティーリア役のロンバルディも好演。この役は、台本だけでは周りを困難に巻き込む単なる自己中女だが、モーツァルトはこの人物をそうは描いていないことを彼女は見事に歌で示した。ティートを暗殺する理由が無くなったときのうろたえの表現など、嘘偽りない本気度が伝わってきた。最終盤で、ヴェッティーリアへ訴えるザミクナイコーヴァが歌うセルヴィーリアのアリア「涙以外のことを」から伝わる熱いハートも胸に沁みた。この歌があってこそ、ヴェッティーリアが自白を決心したと納得できる歌だ。
物語を現代に読み替えた演出は、よくわからないシーンがいくつもあった。このオペラで何を伝えたいかは、モーツァルトの音楽が全てを物語っているし、出演者はモーツァルトの意図を演奏で体現していた。だから余計な小細工でモーツァルトの意図を損ねてしまうのは嬉しくない。例えば慈悲深いティートが、セストを死刑にすべき状況にも関わらず、それを決められずに揺れているときに、ティートがセストの頭に銃を突きつけるような演出はナンセンス。合唱に、物語の外にいるように譜面台を使わせたり、ポップで派手な格好のエキストラが度々舞台で書き割りを動かしたりする意味もよくわからなかった。ただ、全体の物語の流れや登場人物の気持ちに反するような演出とまではいかず、作品を壊してしまうことがなかった点はよかった。
それまでも要所で輝かしい存在感を発揮してきたウィーン国立歌劇場合唱団による、目の醒めるような晴れやかに響く合唱が加わった終曲は、「魔笛」のエンディングのような堂々とした風格を湛えてオペラを締めた。感動がジワリと熱くこみ上げた。
大喝采とブラボーが続き、それが鳴り止んだあとも最上階の数人の観客が熱心に拍手を続けていたら、再び出演者達がステージに登場し、会場にまた拍手が沸き上がった。僕もブラボーコールに参加した。
エラス=カサド指揮 NHK交響楽団(2019.12.12 サントリーホール)
ウィーン国立歌劇場公演「さまよえるオランダ人」(2015.9.11)
(順次更新予定)ウィーン&ベルリン音楽の旅(2023)
ウィーンとベルリンで訪れた演奏会&オペラ(2009)
♪ブログ管理人の作曲のYouTubeチャンネル♪
最新アップロード:「かなりや」(詩:西條八十)
拡散希望記事!
コロナ禍とは何だったのか? ~徹底的な検証と総括を求める~
コロナ報道への意見に対する新聞社の残念な対応
やめよう!エスカレーターの片側空け
え~ポレンザーニってガランチャ並みの人気歌手だったなんて、僕は名前を聞くのも初めてで、そんな認識なしに聴いていました。それを意識していたら更に色々な魅力に気づいたかも知れません・・・
でも素晴らしいとは思いました。音楽の旅の感想はまだ続きます。また何かお気づきでしたら教えてくださいね
おまけに、生ポレンザーニだなんて。読んでいて、目を疑っちゃいました!!
と言うのは、大好き💕なんてす。
ポレンザーニ、ガランチャ(メゾソプラノ)推し💕💕
すいません。勝手に盛り上がっていました
pocknさん、音楽の旅、楽しみにしています。