11月13日(月)サー・ロジャー・ノリントン指揮 NHK交響楽団
東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル
【曲目】
1.ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.61
【アンコール】
レーガー/プレリュードとフーガ ト短調~プレリュード第1楽章
Vn:庄司 紗矢香
2.ヴォーン=ウィリアムズ/交響曲第5番ニ長調
ノリントンの指揮で行われたオペラシティでのN響コンサートはC定期と同じ演目。 C定期で庄司紗矢香はベートーヴェンをノンビブラートで弾いたという話を聞いて、B定期の石坂団十郎のチェロのソロを思い出してしまい少々出鼻をくじかれた気分だったが、庄司さんのノンビブラートでのベートーベンは素晴らしかった。
透き通った美しい音が伸びやかに届いてくる。風に乗って大きな翼を広げ、空中を優雅に舞う鳥のような、自然でダイナミックな表現は庄司さんの持ち味だが、ノリントンのピリオド奏法に合わせたヴァイオリンは、それにまた違ったデリケートさと細やかな表情を加え、いろいろと素敵な発見のある演奏となった。
ノリントンが作るテンポや間や呼吸は庄司さんが普段弾きなれているものとはかなり違うものだと思うが、庄司さんはそれに見事に対応して自分のものとして消化し、完成させてしまう。白熱した盛り上がりを見せたフィナーレのコーダに至るまで、終始引きつけられる演奏だった。
この演奏の全体像はノリントンのこの曲へのアプローチの的確さに負うところが大きいが、一方でノリントンに即座に呼応する庄司さんの力量があってこその結果でもある。ただ、本来コンチェルトでは主役はあくまでもソリストであるべきではないか。
ピリオド畑の演奏家というのは、地道な研究成果による自信に満ちた裏づけからか、「この奏法こそが真実で、モダンの演奏は大きな間違いを犯している」といった類の主張をする人が多い。それはそれで立派だとは思うが、モダン畑で活躍するソリストにもそれを強要することが果たして本当にいつでも聴衆に感銘を与える演奏となるかどうかには疑問を感じる。こうした意味で、モダンの人の方が柔軟度は高いように思う。モダン畑の音楽家でピリオドを否定する人はあまりいないという意味において。
僕はピリオド楽器もピリオド演奏も好きだが(但し、ラッパやホルンなどのヘタクソな演奏をピリオド楽器のせいにするのは論外!!!)、モダンでやるバッハや古典だって良いものはいい。しかし、モダンのオケなどがバッハをやることに気後れするような空気ができてしまっているのは残念だ。いろいろな個性の演奏を聴けることが、聴くことを楽しむ聴衆にとっては幸せなことだ。「作曲された当時ではあり得ない」といった議論は学者に任せておけばいい。
今夜の演奏のことから脱線してしまったが、後半のヴォーン=ウィリアムズももちろんノリントンらしいノンヴィヴラート主体のデリケートで美しい演奏だった。ノリントン/N響は今夜で6回目のステージで、最初に聴いたB定期の初日の演奏からかなりノリントン節に慣れてきたはずなのだろうが、「ノンビブラートは疲れます…」という声も聞こえてきた。外国でずっと外国語をしゃべるっていると、語学力の問題のほかに普段使っていない筋肉や神経を使うことで疲れることがあるが、それと似たような疲れをN響の団員も感じ始めたのかも知れない。
ただ、ノリントン旋風を見事に演じたN響はさすがだったし、いつもとまでは言わなくてもまた時々ノリントンには新鮮な風を運んできてもらいたい。
東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル
【曲目】
1.ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.61
【アンコール】
レーガー/プレリュードとフーガ ト短調~プレリュード第1楽章
Vn:庄司 紗矢香
2.ヴォーン=ウィリアムズ/交響曲第5番ニ長調
ノリントンの指揮で行われたオペラシティでのN響コンサートはC定期と同じ演目。 C定期で庄司紗矢香はベートーヴェンをノンビブラートで弾いたという話を聞いて、B定期の石坂団十郎のチェロのソロを思い出してしまい少々出鼻をくじかれた気分だったが、庄司さんのノンビブラートでのベートーベンは素晴らしかった。
透き通った美しい音が伸びやかに届いてくる。風に乗って大きな翼を広げ、空中を優雅に舞う鳥のような、自然でダイナミックな表現は庄司さんの持ち味だが、ノリントンのピリオド奏法に合わせたヴァイオリンは、それにまた違ったデリケートさと細やかな表情を加え、いろいろと素敵な発見のある演奏となった。
ノリントンが作るテンポや間や呼吸は庄司さんが普段弾きなれているものとはかなり違うものだと思うが、庄司さんはそれに見事に対応して自分のものとして消化し、完成させてしまう。白熱した盛り上がりを見せたフィナーレのコーダに至るまで、終始引きつけられる演奏だった。
この演奏の全体像はノリントンのこの曲へのアプローチの的確さに負うところが大きいが、一方でノリントンに即座に呼応する庄司さんの力量があってこその結果でもある。ただ、本来コンチェルトでは主役はあくまでもソリストであるべきではないか。
ピリオド畑の演奏家というのは、地道な研究成果による自信に満ちた裏づけからか、「この奏法こそが真実で、モダンの演奏は大きな間違いを犯している」といった類の主張をする人が多い。それはそれで立派だとは思うが、モダン畑で活躍するソリストにもそれを強要することが果たして本当にいつでも聴衆に感銘を与える演奏となるかどうかには疑問を感じる。こうした意味で、モダンの人の方が柔軟度は高いように思う。モダン畑の音楽家でピリオドを否定する人はあまりいないという意味において。
僕はピリオド楽器もピリオド演奏も好きだが(但し、ラッパやホルンなどのヘタクソな演奏をピリオド楽器のせいにするのは論外!!!)、モダンでやるバッハや古典だって良いものはいい。しかし、モダンのオケなどがバッハをやることに気後れするような空気ができてしまっているのは残念だ。いろいろな個性の演奏を聴けることが、聴くことを楽しむ聴衆にとっては幸せなことだ。「作曲された当時ではあり得ない」といった議論は学者に任せておけばいい。
今夜の演奏のことから脱線してしまったが、後半のヴォーン=ウィリアムズももちろんノリントンらしいノンヴィヴラート主体のデリケートで美しい演奏だった。ノリントン/N響は今夜で6回目のステージで、最初に聴いたB定期の初日の演奏からかなりノリントン節に慣れてきたはずなのだろうが、「ノンビブラートは疲れます…」という声も聞こえてきた。外国でずっと外国語をしゃべるっていると、語学力の問題のほかに普段使っていない筋肉や神経を使うことで疲れることがあるが、それと似たような疲れをN響の団員も感じ始めたのかも知れない。
ただ、ノリントン旋風を見事に演じたN響はさすがだったし、いつもとまでは言わなくてもまた時々ノリントンには新鮮な風を運んできてもらいたい。
私はバルコニー席でステージ上が殆ど見えずに、ちょっとふてくされておりました。
庄司さん、素晴らしかったですね。
アンコールのレーガー:プレリュードとフーガ ト短調 より プレリュード 第1楽章 は、とても深く、時間的には短かったけれど、強く感銘を受けました。
ノンビブラート奏法は、クッキリ、カッキリとするけれども、浅い感じになると思います。
今回のノリントンとの出会いで、N響がまた更に一際成長することを祈っています。