11月1日(水)サー・ロジャー・ノリントン指揮 NHK交響楽団
《11月Bプロ》 サントリーホール
【曲目】
1.エルガー/「ロンドンの下町」序曲Op.40
2.エルガー/チェロ協奏曲ホ短調Op.85
【アンコール】
ブリテン/無伴奏チェロ組曲第1番~「マーチ」
Vc:石坂団十郎
3.モーツァルト/交響曲第39番変ホ長調K.543
ずっと楽しみにしていたノリントンのN響定期。まずはエルガーの珍しい序曲。明るい音でわくわくするような演奏。極細のペンで描きこんだ鮮やかな細密画のようなディテールの綿密さにも目(耳)を引く。ほとばしるような新鮮な勢いに乗った楽しい演奏!
続くエルガーのチェロコンチェルトはチェロのソロが始まった時から「ん?」という感じ。何だか響きに豊かさがない。ずっと聴き進んで行ってもその印象はますますネガティヴなものに。深遠さ、雄大さ、熱っぽさ… この音楽のこうした持ち味が何だか矮小化されてしまっているようで全く物足りない。雄弁さ、多彩さにも欠ける。
石坂団十郎さんは輝かしい経歴の持ち主だが、わざわざドイツから招ぶほどのチェリストなのか… と大いに疑問を感じた。
それに比べてアンコールは実に雄弁で音色も多彩… 「うーん、いったいこのチェリストはいいのか大したことないのか…」という疑問はコンサートの後に「石坂さんはノリントンの提案で敢えてノンヴィヴラートで弾いた」という話を聞いて全てを納得。
ノリントンの要請というよりも「提案」を石坂さんが受け入れたという。ノンヴィヴラートにはそれなりの良さはあろうが、今回は残念ながらヴィヴラートの長所がただ無くなってしまっただけの演奏で終わってしまったと思う。もうすこし徹底的にこれで弾き込めば違うものが出るかも知れないが、今夜は「ヴィヴラートの良さ」を逆に教えられる結果となった。
さて、一番期待していたモーツァルトは「やってくれました!」という演奏になった。
第1楽章序奏の駆け抜けるようなテンポは、弦のスケール下降が自然な重力で落ちるような感じ。それに対比して上昇音形を描く管はまさにこのテンポがぴったりで水を得た魚。そして始まった主要部はノリントンの独壇場。ひとつひとつ例示はしないが、ピリオド楽器のオケで聴くあの音が、あの表現が、N響から自然に湧き出てくることが何だか不思議。しかもその演奏は実にハイレベル!弦のピュアでどこまでも伸びてゆく柔らかな音の美しさ、明るく楽しげな管の語らい、舞曲そのものといったステップと息遣い…
普段耳慣れたこの曲とは随分かけ離れた演奏だけれど、例えばこの夏に聴いたヤンソンス/コンセルトヘボウの一生懸命考え出した人工的なモーツァルトの印象とは全く違うのはなぜだろう、と考えてみると、ヤンソンスが「思考を凝らして捻り出した」という感じに対して、ノリントンは音たちをあるがままの姿に解き放ち自由に遊ばせているという解放感が、モーツァルトをよりモーツァルトらしく感じさせている決め手であるように思う。
第4楽章のなんと賑やかで楽しくエネルギーに満ちた演奏。変な表現かも知れないが、開拓時代のSLが機関車トーマスみたいなご機嫌な顔つきで煙を吐き、蒸気を吹き、ガチャコンガチャコンと陽気に走り抜けて行くような情景が浮かぶ。
こんな普段と違う奏法にもたちどころに順応して抜群の演奏を聴かせてしまうN響の適応力にも驚く。ただ、ピリオド奏法というのは一つの確立された奏法の一つではあるので、大抵のメンバーはこうした奏法も経験があるそうで、楽員も楽しんで演奏していたとのこと。きっと2日目や「NHK音楽祭」での事実上の3日目では益々手馴れた演奏を聴かせてくれるに違いない。あ、でも強弱の効果を出すために出番が少なかったプレイヤーには少々退屈だったかも…
演奏だけでなく、ステージ上の振る舞いも茶目っ気たっぷりのノリントン。本当に音楽を楽しんでいる風ではあるが、これだけ音楽の原点に立ち返ったような演奏を生み出すには、曲を知り尽くし、その効果を研究し尽くしているに違いない。改めてノリントンのすごさを実感した。
《11月Bプロ》 サントリーホール
【曲目】
1.エルガー/「ロンドンの下町」序曲Op.40
2.エルガー/チェロ協奏曲ホ短調Op.85
【アンコール】
ブリテン/無伴奏チェロ組曲第1番~「マーチ」
Vc:石坂団十郎
3.モーツァルト/交響曲第39番変ホ長調K.543
ずっと楽しみにしていたノリントンのN響定期。まずはエルガーの珍しい序曲。明るい音でわくわくするような演奏。極細のペンで描きこんだ鮮やかな細密画のようなディテールの綿密さにも目(耳)を引く。ほとばしるような新鮮な勢いに乗った楽しい演奏!
続くエルガーのチェロコンチェルトはチェロのソロが始まった時から「ん?」という感じ。何だか響きに豊かさがない。ずっと聴き進んで行ってもその印象はますますネガティヴなものに。深遠さ、雄大さ、熱っぽさ… この音楽のこうした持ち味が何だか矮小化されてしまっているようで全く物足りない。雄弁さ、多彩さにも欠ける。
石坂団十郎さんは輝かしい経歴の持ち主だが、わざわざドイツから招ぶほどのチェリストなのか… と大いに疑問を感じた。
それに比べてアンコールは実に雄弁で音色も多彩… 「うーん、いったいこのチェリストはいいのか大したことないのか…」という疑問はコンサートの後に「石坂さんはノリントンの提案で敢えてノンヴィヴラートで弾いた」という話を聞いて全てを納得。
ノリントンの要請というよりも「提案」を石坂さんが受け入れたという。ノンヴィヴラートにはそれなりの良さはあろうが、今回は残念ながらヴィヴラートの長所がただ無くなってしまっただけの演奏で終わってしまったと思う。もうすこし徹底的にこれで弾き込めば違うものが出るかも知れないが、今夜は「ヴィヴラートの良さ」を逆に教えられる結果となった。
さて、一番期待していたモーツァルトは「やってくれました!」という演奏になった。
第1楽章序奏の駆け抜けるようなテンポは、弦のスケール下降が自然な重力で落ちるような感じ。それに対比して上昇音形を描く管はまさにこのテンポがぴったりで水を得た魚。そして始まった主要部はノリントンの独壇場。ひとつひとつ例示はしないが、ピリオド楽器のオケで聴くあの音が、あの表現が、N響から自然に湧き出てくることが何だか不思議。しかもその演奏は実にハイレベル!弦のピュアでどこまでも伸びてゆく柔らかな音の美しさ、明るく楽しげな管の語らい、舞曲そのものといったステップと息遣い…
普段耳慣れたこの曲とは随分かけ離れた演奏だけれど、例えばこの夏に聴いたヤンソンス/コンセルトヘボウの一生懸命考え出した人工的なモーツァルトの印象とは全く違うのはなぜだろう、と考えてみると、ヤンソンスが「思考を凝らして捻り出した」という感じに対して、ノリントンは音たちをあるがままの姿に解き放ち自由に遊ばせているという解放感が、モーツァルトをよりモーツァルトらしく感じさせている決め手であるように思う。
第4楽章のなんと賑やかで楽しくエネルギーに満ちた演奏。変な表現かも知れないが、開拓時代のSLが機関車トーマスみたいなご機嫌な顔つきで煙を吐き、蒸気を吹き、ガチャコンガチャコンと陽気に走り抜けて行くような情景が浮かぶ。
こんな普段と違う奏法にもたちどころに順応して抜群の演奏を聴かせてしまうN響の適応力にも驚く。ただ、ピリオド奏法というのは一つの確立された奏法の一つではあるので、大抵のメンバーはこうした奏法も経験があるそうで、楽員も楽しんで演奏していたとのこと。きっと2日目や「NHK音楽祭」での事実上の3日目では益々手馴れた演奏を聴かせてくれるに違いない。あ、でも強弱の効果を出すために出番が少なかったプレイヤーには少々退屈だったかも…
演奏だけでなく、ステージ上の振る舞いも茶目っ気たっぷりのノリントン。本当に音楽を楽しんでいる風ではあるが、これだけ音楽の原点に立ち返ったような演奏を生み出すには、曲を知り尽くし、その効果を研究し尽くしているに違いない。改めてノリントンのすごさを実感した。
私は11/2の演奏会を聞きました。
ご不満だったチェロ協奏曲ですが、私は素晴らしいと思いました。初日はやっぱり固かったんでしょうかね?もともと「豊かさ」とはかなり方向の違う演奏と思いましたが。
音楽にお詳しいpocknさんと弘明寺太郎さんの御意見が分かれたのか、1日目と2日目がとても違ったのかは解りませんので、ちょっと別のこと。とにかく空席がありませんでした。定期会員の欠席者が少なかったんですね。先月は空き空きでしたのに。
一流のチェリストであれば自分が納得しないままにノンヴィヴラートで弾くわけはないと思うので、それを敢えて行ったことには石坂さんの信念と自信もあったはずで、それを弘明寺さんは的確に感じ取ったのだと思います。ただ、私としてはヴィヴラートを入れた本来の石坂団十郎の演奏を聴いてみたかった、アンコールを聴いて思ったのでした。