Lupinus-ルピナス-

絵本のルピナスさんのように自分なりの「世の中を美しくすること」を見つけたいと思っています。

エンバーミング

2009年12月23日 | 死生観について
前回、死者の埋葬方法の変化などについて書きましたが、死体の腐敗の過程を見るか見ないでは、恐らく死、そして死者への感じ方はだいぶ違うのだろうと思います。

今回は、母の死の際に経験した遺体についての処置と、感じたことなどを書きます。

私の母は今年の5月3日の夜中に亡くなりました。通常ですと、翌日に通夜となる予定でしたが、5日が友引だったためその日を避けて、GW明けの6日以降に通夜・葬儀を行うこととなりました。
そのため葬儀までに3日間の猶予ができたわけです。
もう季節は暖かさを増していたので、遺体の腐敗防止のために、葬儀社と相談し「エンバーミング」という処置をしました。

エンバーミング→
http://ja.wikipedia.org/wiki/エンバーミング

母が死んでしばらくの間は頬もやわらかくふわふわしていて、体温もほのかに温かく、まだ「生」の余韻があったものが、エンバーミングの処置を終えて帰って来たときには、頬もかたくなり、身体はひやっと冷たくなっていて、ああ、もうこれは完全に「死」だ。と感じざるを得ませんでした。
(ただ、身体が固くなったのは、エンバーミングのためというよりは、死後硬直が進んだためと思います)
残された者にとっては、死んだ人がもう眼を開けず、声をださず、死によって「沈黙した状態」になるだけで、死体の腐敗の変化を見ることはなくても、死を意識させるにはそれだけで十分でした。

そして、3日間葬儀の間まで間があったので、ゆっくりお別れができたことは、気持ちの整理のためによかったと思います。
もし翌日すぐにお通夜だったら、まだ心残りがあったかもしれません。

悲しい笑い話なのですが、エンバーミングから帰ったきた母に、母の友人の美容師さんが死化粧を施してくれました。
母ははっきりとした色の口紅を生前好んでいて、化粧をしたらとても華やかになりました。
でも、日が経つごとになんとなく化粧が薄くなってとれているなーと思っていたら、
どうやら父が頬をすりよせたり、ちゅーしてたりしていたそうなんです。
「もう、おとうさんったら~」とみんなで笑っていたけど、
心の中では「おとうさん・・・つД`)・゜・。・゜゜・*:。」と泣きそうな気持ちになっちゃいました。

そして、父がそのように遠慮なく母の遺体に触れてお別れできたのも、腐敗防止の処理ができたためだと思います。
これで、もし、なにもせずに遺体がどんどん変化していってしまったら、生前の気持ちと同様に遺体に接することができたかは、正直なところわかりません。

人間は、「霊」「魂」「体」の3部分に分けられると、シュタイナーの本では書いてありますが、体がなくなっても、そのほかの部分は残ると私は、そう思っていますが、
この肉体のある世界に生きている私たちは、体というものを通して、他人と触れ合ったり、話をしたりすることができます。体は、人と交流する際に温かな実感を感じさせてくれる、大切なものです。
だから体が動かなくなる、実体としての存在がなくなるということは、とても大きなショックです。

そこに残された体に対しても、生前と同じ気持ちで接することができなかったら、遺された自分がそう感じることの罪悪感がつのり、つらいだろうなと思いました。
だから、エンバーミングの処置は遺族が愛情を持って、心置きなくお別れができるという点では、大変ありがたいものでした。

ただ、これは本来の人間がたどる自然の死の過程ではないということも感じています。
体が動かなくなるだけで、死を意識することは十分わかりましたが、
「きれいな死」は、現代の人々の死への観念を希薄にさせる影響はあるのか・・・?

正直なところは、まだよくわかりません。



調べたい本を図書館で予約しているのですが、借りている方が延滞していて、なかなか返ってこないので(笑)、
死生観の記事は、また来年に書きます~

それに、もうクリスマスも近いですし、何か違う話題にしましょう☆

今日は、娘はクリスマスパーティ2軒はしごです。






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