12月10日
勉強を始めるときの、小説を書き始める時の、あの独特なやる気のでない嫌な感じは依然として続いていきます。
席について、ふうと一息してから朝マックを平らげて、半分ほど残ったホットコーヒーを相棒にしてパソコンを開いてみるも、何も思いつきません。
いや厳密には、書くことくらいは今しているように、書き続けられるわけですが。問題は自分の書きたいことが文章化されているか、そして一つの物語としてまとまりがあるか、それに着目しようとしても全く身に入らないことです。もうたらたらしていられない、仕事が始まるまであと10日もないのだから、早く書いてしまいたいのは山々なのですが、ずっと苦しみの迷いの中、右往左往の無限回路を走り続けているのです。
おそらく、完成度を高くしよう高くしようと、躍起になっているのが原因でしょう。いつまで立っても書くことができない。それで執筆に時間を掛ければ、それだけ完成度の高さを自分に求めてしまい、そのハードルの高さに苦しめられるのです。ああでもない、こうでもないと、ずっとそれです。頭の中には簡単にあるはずなのに、進まないのです。もう馬鹿なのでしょうか。あと10日しかない。別にできないのならできないで構わないのですが、これでできなければ多分一生できないままだと思います。だからこれは自分に賭した試練でもあるのです。
もう、命懸けでもなんでもいい。私はプロでもなんでもないのですが、意地でもやり遂げたい気持ちは強く、だからこそここまで苦しんで、自己嫌悪にやられまくっているのでしょうか。それしか考えられない。でも結局は、世の中でどれくらいの力を見せられて、認めさせることができるかは、その人の努力が全てではないでしょう。才能は持って生まれた人がそりゃいるに決まっているし、のち越えられない壁はないとは言えない。絶対に無理なことは存在する。それが果てしない無力感を生み出していき、それは空間を埋め尽くして、人々の憂鬱を駆り立てていく。それに抗うような形で、娯楽とか芸術とかに身を委ねて明日とか明後日をうまく掻い潜っていくのでしょう。それが人生なのだとしたら、この自分の表明していく側に立ち回った時、それはサービス精神の全てでやっていくしかないのでしょうか。それとも自身の魂を、命懸けの精神を、ありったけに詰め込んで出来上がるのが、本当の傑作と言えるのでしょうか。結局世の中で認められるものは、ちょっとした偶然で決まったりするから、私のしていることに、本当に実を結ぶ気でいるのならば、手当たり次第に営業をしていくのか、それとも見つからない自分でも悔いのないように、全力でぶつかっていくのか、それともまた、単純にマイペースに楽しくやっていくのがいいのか。多分全部にやり方があって、満足度も違っていて、悪くないと言えるのでしょう。とりあえず悔いのないように。