星の上の馬鹿者

これは放浪記です。いろんなところに行っています。

わかりやすい病み方の例

2021-12-01 14:19:31 | 日記

12月1日

 

冬がきました。同時に寒さもほどほどになりました。季節は変わっても、相変わらず私はクソみそに病んでいるのは変わりません。少しはまともに現実を見ていたいはずなのに、怖いことだらけでできないことが山積みです。 

嘆いても仕方ないので、こうしてパソコンを開いているのですが、日記なんて書いている場合なのでしょうか。

・・・。

家の近くにあるマクドナルドでこれを書いています。「day dream beliver」が流れているファストフードの店で、寒空の澄んだ空気感の、車が行き交う大通りを眺めています。横には手帳に何か書き込む中年の男性と、半分話し込んでいる状況に馬鹿騒ぎが抑えられそうにない女性親子のような二人。私はこうして文章を打ち込んでいることに違いはありませんが、どうしても私はこの生きていることそれ自体に必死さを感じざるを得ないのです。何も問題なく生きていけそうなはずなのに、平静を保つことは難しい。

今日も今日とて、こんな調子です。

ミスチルの終わりなき旅を聴いていると、今の状況も正念場的な壁を乗り越えている時期であり、これからの頑張りで変わっていけるんじゃないかと、そんな希望も見えそうで嫌になります。壁なんてものがあるのなら、私は常日頃から壁を感じています。そんな意識の高い大学生とは違うんだから、と下に見てやりたいのに、私はそれ以下の自己否定の塊なのです。そして他人を見下したいときは、ネガティブで自分のやりたいことががんじがらめに囚われているときであって、ひたすらに私を飲み込んでいくのです。この鬱屈した気持ちは、多分常に漂っている不景気のせいでしょう。金が欲しい、恋人が欲しい、余裕が欲しい。その全部がないのは、今の私が大変そうだからでしょうか。人々はもっと余裕のある人に行きたいに決まっています。

酒に溺れてえ、溺れてえと思います。なんで私は向かう先々で失っていく自信を取り戻すことができないのでしょうか。ああ、今日はだめですね。いつもよりも調子が悪い気がする。何も取り繕うことができない気がします。とりあえずまだ昼過ぎなので、読書に戻ろうかと。


ぼやき

2021-12-01 13:06:25 | 日記

 

 

ぼやいていくことの始まりは、私の中にある大量の思念がそう願ったからではなく、いたって消極的にやっていくことの流れでございます。正直、今できることといえばこれくらいなものにしか思えず、源氏物語もシェイクスピアも、私の脳裏にうまく焼き付いてくれるものではありません。せっかく本を買ったのに、あえなく断念してしまうのは悔しい限りですが、どうも最近は読書にも身が入らない。これは昨日の飲み過ぎたことによる二日酔いが完全に影響しているのでしょうが。

連続でブログを書くのはちょっとした計算外で、やることもない寝ぼけた頭でとりあえず書こうとふらふら考えて、さあ何を書けばいいのやらと思うわけですが、この難読な文章に託けて自分語りでもしようかと思っています。

この私、関西で生まれ、流れ流れて20代も後半を終えようとしている、危ういような、令和の時代がまだまだいけると安心させてくれるような、そんな年齢の人間です。最近大阪に引っ越して、日頃梅田や天王寺に赴いて、何をするでもなくふらついているのが性に合っている、それは私が中学生くらいの頃から身につけた暇つぶしに過ぎないのですが、その習性が大人になった今でも抜けきらないのでございます。こんな感じで、一人でいることがとにかく安心であり、同時に孤独の不安もある。孤独と安心は常に同居しているのが摂理のようでして、そうなればこの二つの感情は相反するものではなく、互いに打ち消しあうこともない許し合えるもの同士のようです。でもぼっちの方ならなんとなくでもわかってくれやしないかと願っています。それで私は誰と仲良くしている時でも一人を願う時があり、そして一人になれば孤独を憂い、そして誰かと時間をともにすれば心は満たされていくとともに一人の開放感をどこかしら求めていたりするのでした。

いってしまえばないものねだりの極限地、それも理解してか最近ではそんなに一人を求めることはくなってきました。高校から大学生の頃なんかは顕著にひどかったです。教師も親も大嫌い、大人という生き物が半端なく醜くうざったらしい、ずる賢い類人猿にしか見ていなかったのです。ほんのわずかな一部の大人だけを、なんとなく無意識に大人として見ているくらいでした。流石に成人全てを嫌いと見ることは難しいので、その分別は自分なりにしていたようです。というのも、人を憎しむには相当のエネルギーが必要ではありますから、いくら反抗期でも愛情くらいは感じていたい、それを許せる人には与えておかないと自分が潰されてしまうわけです。愛情もまたエネルギーを要するものですが、それは自分を擦り切れさせるような、戦いのエネルギー消費とは違います。しかしまあ、私がそんな意識を顕在させていたわけもなく、とりあえず気を許せる相手にはそうしていたというわけなのですが、さあ一体、私が無意識にも気を許していた相手はどんな人だったのでしょうか。それは高校の頃の現代文の先生だったり、親戚の叔父夫婦だったり、その時その時でなんかあの人とかいたなーってぼんやり浮かんでくるわけです。

優しい人たち、私にとっては惨めで暗いことの塊だった青年時代を後押ししてくれたことが、優しさを感じさせてくれたのでございます。エピソードトークの苦手な私ですので、いまいち説明のならないのは少し勘弁してほしいかもしれません。面倒臭いとかそういうのではなく、ただ単純にこんな具合でし書けない睡眠不足の続く日々なのです。