最近とても楽しみにしているTVドラマが、日本テレビ系
『女王の教室』だ。公式サイトをたまたま見てみたら、「教育上よろしくない。放送中止を!」という掲示板への書き込みがあり、とても驚いたものだ。
いじわるな意見もあって「実はいい先生でした、では納得しませんよ」と先の展開を牽制するのもあった。
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『女王の教室』公式サイトはこちら
理不尽にも思える(
天海祐希演じる)女教師に対して、子供達がどう切り抜けるのか?がドラマの見どころのはずだ。
…そうそう、
楳図かずおの
『漂流教室』は子供達のサバイバルだった。この
『女王の教室』も
サバイバル・ドラマなのだ。
だから「女教師の正体が“本当はいい人”であろうと、“悪魔”であろうと、それは構わない」と思う。
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そんなわけで興味深く視ているのだが、
毎回「感動」してしまう。
こんなに熱くなるドラマはひさしぶりだ。
実はボクは
『金八先生』シリーズも、できるだけ見ようとしているんです。「それでもなにか感動があるのでは?」という期待があるから。
…しかしこのドラマは、現実の出来事に置いていかれないような新機軸をシリーズごとにテーマにぶち込むのだが、それはすなわち
「金八先生では、子供を救えない状況」をもあぶり出していく事になってしまった。
学校崩壊ならぬ、《金八先生崩壊》を招いたのだった(それはそれで清いと思う)。
それが時代の
リアリティだ。そのリアリティに対して、創りものであるドラマは何を描けるだろうかという点で、
『女王の教室』は
『金八先生』への《カウンターパンチ》になっているのではないだろうか?
それは「理想の先生とは?」という命題なのだ。
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はっきり言うと、
『女王の教室』の教師、【真矢】は《理想の教師像》なのだ。理想的であるゆえに、存在しないのだ。
ドラマだから存在するというわけだ。
つまりドラマの意義とはここにあるのでは?