blogピュア1st.

Teacupブログより引っ越して来ました。
好きなマンガや、創作マンガについて語ります。

フインキの時代がやって来るぞおおお~

2005-08-18 21:11:29 | 流行語・日本語
 某ブログで、例の「ふいんき」が使われていた!
お互いウェブ上では知らないわけでもない(まだ親しい仲でもないから伝えやすい)ので、メールでそっと教えてあげようかと思った。

 それはカタカナで「フインキ」と書かれていた。ということは、漢字に変換できなかったという事でしょう~。

 ちょっと好奇心から「ふいんき」で検索してみた。するとこの事に反応して、考察するサイトはとても多いのね。・・・その中には「ふいんき」に関するサイトのリンク集もあって、たいへん参考になったよ。

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 一つ分かったのは、「フインキ←(なぜか変換できない)」と書いてあるケースは、それを書いた人物は“意図してあえて書いている”という事なのだ。
ご想像つくかもしれないが、【2ちゃんねる】が発祥だ・・・!


 するとここで、「違ってますよ。“ふんいき”が正しいのですよ」などとお節介をすると、立ち場が逆転しかねない。物を知らないのはこっちだと、バカを見る可能性があるのだ。

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 バカを見る?・・・そんなバカな事があっていいのだろうか!

 【2ちゃんねる】の常識が、ネットの常識ではない。
しかし小学生だってこの「フインキ←(なぜか変換できない)」に遭遇するのだ。とするとこのまま「ふいんき」が定着していく可能性もあるじゃないか!

 「新しいだって、元は“あらたしい”だった。日本語は変化するもの」として、容認する人も多いのだが、違ってると気づいたものは正せばいいこと。変化するのを見守る事に何か意味がありましょうや?

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 ネットの中にはこんな意見もあるよ~
もはや「ふいんきは常識」派

「正しく標準語で言うと、ふんが強調されてなんか変でしょ?」

「書くときは雰囲気っていうじゃない?
 でも発音するとき、ふいんきっていうよね、みんな?あれ変だよね?
 ふんいきいいよね、とか。。言わないよね?」



 じっさい「ふんいき」なんて言わないでしょ?という立ち場だ。

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 ただし・・・方言で「ふいんき」と発音する地域もあるという意見もあります。

 前にも同じネタを書いて、補足で「やもうえず」の事を書いたけど、これもかなり深刻・・・。「ふいんき」を問題視するサイトは多いが、「やもうえず」は問題視されず、公式サイトなどに使われているのだ!

 検索してみて!「やもうえず」のヒットも多いんだよね~

終戦の意味を

2005-08-14 23:43:32 | ノンジャンル
 「終戦記念日」「敗戦…」と言い換えるべきだ、という意見がある。

 「敗戦」を直視せよ!という事だと思いますが・・・

 しかしボクは「終戦」で良かったと思っています。
当初どういう意図があったかは知りませんが、「終戦」にボクらは『最終戦争』というニュアンスを読み取っていると思います。

 言い換えれば、先の大戦で亡くなった方々は「最終戦争」を戦ってくれたのです。その結果日本人は「戦争をしない生き方」に辿りついたのです。だからこそ戦争をくり返す事があってはなりません。

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 終戦真際の日本人がどんな思いで戦場に赴いたかは判りません。ですが向かう時は自分の足で歩くのだし、操縦していくのですよね。・・・自分なりに割り切らないと出来ない事だと思うのです。

 それなら彼らは「日本の再生」を願って、命を捧げたのだろうと思います。

 日本は一度死んで、《再生》をしました。
だからあれを『最終戦争』としなければならないのです

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 しかしながら、世界が同時に『最終戦争』を経験できれば良かったのですが、そういう《経験をしなかった国》《自覚のない国》《最終戦争を計画する国》《まさに最終戦争に臨む国》《争いの慢性化した国》などがひしめきあっています。

 日本だけが勝手に「戦争は終わりました」と言っているに過ぎないとも言えるわけです。・・・そんな中を日本は生き延びていかなければなりませんね。


 再生した日本をもう一度失うわけにはいきません!
そのために常になんらかの《覚悟》も必要だと思います。

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 また一方で・・・
「反戦」である為にも《覚悟》がいると思います。
戦争を始めるより過酷な《覚悟》です。


 この《覚悟》なくして「反戦」は出来ないと思っているのです。

 ・・・しかし《覚悟》なんて無理かもしれません。


みなさまのオタ幸5

2005-08-11 21:05:38 | マンガ・マンガの園
 “オタク”を世間に広めたのは、宅八郎だと言っていいと思う。そして彼の存在自体が問題視された。・・・彼より以前の泉麻人は世代的に少し上になるのだが、「サクセスおたく」と呼ぶ人もいたし、問題視される事はなかった。

 だが宅八郎はより過激なパフォーマンスをして見せたのだ。
あの独特なファッションだって、彼の私服とは言いきれまい。その前にはオシャレに気を使った時代があったのを写真で見た事がある。彼は「オタクを演出してみせていた」に違いないのだ。

 その宅八郎が、プレイボーイ誌の編集者小峯某とTV番組の中で対決していたのは、見物だった。(今思えば「何の対決をしていたのか」よくわからないものだったが…)


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 ここには「80年代的価値観」が支配していて、「明るい」は良い事。「暗い」はダメな事という2極しかなかった。

 小峯某も“ガンマニア”であったが「ナンパもするし、ファッションもほどほどに気を使い、明るく行動的だ」という主張。一方は、「暗い」という事になる。
小峯が攻撃の主眼としたのは、「暗いヤツは認めない」という、この点だ。


 小峯は自分の口でなんとかを封じ込め、「オタクの台頭」を阻止したかったのに違い無い。しかしは(オタクの多くがそうであるように舌戦には強かったのだ
小峯は自分の主張が通らない事に憤りを感じていたに違い無いし、対決の不毛さに気づいてもいただろう。

 高圧的な小峯がオタク宅八郎に粉砕されていく様は、正直痛快だった。
…それでも小峯は苦し紛れに、しきりに「オタクの定義」をして対抗しようとしていた。

それはこういったものだ。

「オタクは、自分の部屋に閉じこもって自分の趣味に没頭し・・・」

 “外に出て、女と遊べ”と、そう言いたかったのだろう。
だがこの定義は、何の価値もないし意味もない。

 「自分の部屋に閉じこもって」いるのなら、【コミケ】という、世界に名の轟くビッグイベントが成り立つわけがないではないか・・・。オタクきわめて活動的だし、コミュニケーション好きだ。ここは誤解してはいけないと思う。

しかし小峯のような誤解は残念な事に世間に広まっていく・・・。
話はややこしい事になっていくのだ。


*この「宅vs小峯」の詳細を知りたくて検索したら、こういうサイトが見つかりました。裏事情が解って面白いです。クリック!


『宇宙戦争』の描く恐怖

2005-08-06 17:48:43 | メデイア・映像
 『宇宙戦争』を観てきました。
公開したら日本での評判は今一つのように聞こえてきたけれど。そんなことはない。とても面白かったよ!

 なにしろ“恐い”。未知のものに襲われるというのは、こんなにも恐いか・・・、という所がよく出来ていたと思う。「どこに逃げたらいいのか」判らないのだし、そもそも敵が何なのかも判らない。


***


 さすがはスティーブン・スピルバーグ!
『激突』で「理由も無く、トラックに襲われる」恐怖や、『ジョーズ』で「“食うだけの機械”に襲われる」恐怖を描いた作家だけの事はあるね。
 共通するのは「意思の疎通の皆無」という事でしょう~。

 『宇宙戦争』はその延長上にある。上記の初期作品と同類の恐怖を描いた《パニック映画》であるし、また《戦争映画》であり、《怪獣映画》だと思った。


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《怪獣映画》だと思うのは、例の【トリポッド】の描き方だ。
日本特撮が忘れてしまいがちな「巨大な物から追われる」恐怖を上手く表現できている。「あのとんでもなく大きな物が、こちらに向かって来る」様子を想像した事はないだろうか?・・・これは恐いよ。

《戦争映画》だと思うのは「空爆と逃げまどう市民」をだぶらせているとしか思えないからだ。・・・ここでふと思うのは「面白くない」と思った人は、宇宙人対地球人の“戦闘”を期待していたという事はないだろうか?・・・
 この映画には“戦闘”は描かれていない。“戦場”が描かれているのだ。そして市民が逃げまどうのも“戦場”だ。

 逃げまどう主人公の視点で常に描かれるため、エイリアンのトリポッドが何をしているか、どんな惨劇が起こっているか、ほとんど見えないのだ。
それだけに余計、恐怖感が増す。


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 イラクの子供達には空からやって来る米軍が、エイリアンほどに恐怖だっただろう。
 それから忘れてはいけないのは、「原爆の恐怖」だ。有無を言わさぬ殺戮。スピルバーグよ、よくぞ描いたと思う。
 襲われた者は「何が起きているのか判らないまま、死んでいく」

 日本映画は「原爆の悲劇、悲惨さ」は描けても、この不条理な恐怖感は描ききれていないのではないだろうか?
 どんなに惨い惨状を描いても、被害者の悲しみ以上の描写にはならないのではないだろうか、と思えてもどかしくも思う。


***


 どこの国のどんな人種であろうと、空から核爆弾が落ちて来る惨劇に遭うかもしれない…という現代の不安、恐怖はなかなか描けないと思う。

 『宇宙戦争』は、その恐怖が描かれていた。見事だ。