私は30代の頃にコピーライターをしていたことがあります。
明るい過去でもなけりゃ、かといって暗~い過去でもない、
まあ中間ぐらいですかねえ
血わき、肉おどる…ワッショイ!! とまではいかないまでも
ポスターになったり、地方新聞の一面を飾ったりすると
そこそこ仕事をした気分になったりしたものです。
(実際仕事をしているのは広告会社の方々で、
私はそのコピー制作の一端をになっていたにすぎません)
私の住む県でもコピーライターとして華々しく活躍している方もいらっしゃいますが、
私はとんとそういう華やかなことには縁がありませんでした。
私が最初に勤めることになった広告会社の面接には、
自費出版した詩集を持って行きました。
「タテゴトアザラシのなみだ」という詩集で、失業保険をはたいて作ったものでした。
なんか、そのころから失業グセがあるんかしら~(爆)
余談ですが「タテゴトアザラシのなみだ」はネットの古本で出ておりますね。
よく残っていたもんだ。
で、まあ支社長はその詩集を見て、
「普通、ごはんを食べるのが先だと思うのだが…。よくこんなの作ったね。
この詩集がいいか悪いかの評価はワタシにはよく分からんが
その心意気を買いたい。よかったらウチでやってみないか」的なことを言いました。
広告会社には即採用されましたが、会社にいるのが即つらくなって
即退職しました。←バカじゃねえのか(笑)
私はコピーライターとして一人前…どころか半人前、いや4分の1人前?
もしくはもっと?(泣)になる前にやめちまったのです。
そして、その流れで独りコピーライターを続けました。
のれん分け、とか独立とか、そんなカッコイイ感じはみじんもありませんでした。
私はとにかく社会システムに関して耐性がなかったようです。
この程度の社会システムに耐えられなんだら、
いったいどこの国のどのシステムで耐えられるというのであらうか!?
みたいな。うぅ…(T_T)
でも、仕方ありませんでした。当時の私にとってみれば…
東京からズタボロになって帰郷し、三十路女・最後の社会復帰をかけての
仕事への挑戦!!みたいな感じだったのですが、見事に砕けました。
それはさておき、とりあえずコピーライターが書いたものとして採用されたコピーは
原稿料としてお金に変換されるわけですが、
書いたものがお金に変換されるというのは、なかなか不思議な体験でした。
でもまあ、不思議がっているだけにはいかない時もあり、
アテにしていた原稿料が遅れたりした日にゃ、お家賃を待ってもらったこともありました。
いい大家さんでよかったです…野菜もよくくれたし。
原稿料はこずかい程度にはなりましたが、アパートを借りて一人暮らしをしていくには
とうてい足りませんでしたので、
役所の臨時に出たこともあれば、カメラ会社の工場ラインに出たこともありますわ。
〇〇食品というところでゴボウの袋詰めもしました。
さて、あれから20年っっ!?
今また自分は失業というニュートラル状態になっているわけですが、
これが美談になる日がくれば超絶嬉しいですね(*^_^*)
これからやりたいこと、なりたいものはあります。
二胡茶館の女主人と、国民的詩人です。
笑わないでくださいね~(笑)←って、自分で笑っておりますね
明るい過去でもなけりゃ、かといって暗~い過去でもない、
まあ中間ぐらいですかねえ
血わき、肉おどる…ワッショイ!! とまではいかないまでも
ポスターになったり、地方新聞の一面を飾ったりすると
そこそこ仕事をした気分になったりしたものです。
(実際仕事をしているのは広告会社の方々で、
私はそのコピー制作の一端をになっていたにすぎません)
私の住む県でもコピーライターとして華々しく活躍している方もいらっしゃいますが、
私はとんとそういう華やかなことには縁がありませんでした。
私が最初に勤めることになった広告会社の面接には、
自費出版した詩集を持って行きました。
「タテゴトアザラシのなみだ」という詩集で、失業保険をはたいて作ったものでした。
なんか、そのころから失業グセがあるんかしら~(爆)
余談ですが「タテゴトアザラシのなみだ」はネットの古本で出ておりますね。
よく残っていたもんだ。
で、まあ支社長はその詩集を見て、
「普通、ごはんを食べるのが先だと思うのだが…。よくこんなの作ったね。
この詩集がいいか悪いかの評価はワタシにはよく分からんが
その心意気を買いたい。よかったらウチでやってみないか」的なことを言いました。
広告会社には即採用されましたが、会社にいるのが即つらくなって
即退職しました。←バカじゃねえのか(笑)
私はコピーライターとして一人前…どころか半人前、いや4分の1人前?
もしくはもっと?(泣)になる前にやめちまったのです。
そして、その流れで独りコピーライターを続けました。
のれん分け、とか独立とか、そんなカッコイイ感じはみじんもありませんでした。
私はとにかく社会システムに関して耐性がなかったようです。
この程度の社会システムに耐えられなんだら、
いったいどこの国のどのシステムで耐えられるというのであらうか!?
みたいな。うぅ…(T_T)
でも、仕方ありませんでした。当時の私にとってみれば…
東京からズタボロになって帰郷し、三十路女・最後の社会復帰をかけての
仕事への挑戦!!みたいな感じだったのですが、見事に砕けました。
それはさておき、とりあえずコピーライターが書いたものとして採用されたコピーは
原稿料としてお金に変換されるわけですが、
書いたものがお金に変換されるというのは、なかなか不思議な体験でした。
でもまあ、不思議がっているだけにはいかない時もあり、
アテにしていた原稿料が遅れたりした日にゃ、お家賃を待ってもらったこともありました。
いい大家さんでよかったです…野菜もよくくれたし。
原稿料はこずかい程度にはなりましたが、アパートを借りて一人暮らしをしていくには
とうてい足りませんでしたので、
役所の臨時に出たこともあれば、カメラ会社の工場ラインに出たこともありますわ。
〇〇食品というところでゴボウの袋詰めもしました。
さて、あれから20年っっ!?
今また自分は失業というニュートラル状態になっているわけですが、
これが美談になる日がくれば超絶嬉しいですね(*^_^*)
これからやりたいこと、なりたいものはあります。
二胡茶館の女主人と、国民的詩人です。
笑わないでくださいね~(笑)←って、自分で笑っておりますね