
日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)代表委員で、2015年ノーベル平和賞受賞者に推薦された、長崎の被爆者谷口稜曄(すみてる)さん。
2015年4月24日、NPT再検討会議に向けて訪れたアメリカで、クーパーユニオン大学で開かれた「核のない平和で公正で持続可能な世界をめざす国際平和地球会議」の開会総会で挨拶なさいました。
本日、2015年8月9日、長崎原爆の日の記念式典で読み上げられた平和宣言の中で、田上富久長崎市長は「平和安全法制」=戦争法案に対して、平和宣言としては異例の懸念を表明しました。
「現在、国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。
70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、今揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。
政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯(しんし)な審議を行うことを求めます。」
地方自治体の長としては、ぎりぎり踏み込んだ発言だったと思います。
「70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、今揺らいでいるのではないかという不安と懸念」
に触れざるを得ない危険性が戦争法案にはあるのです。
また、被爆者代表の谷口稜曄(すみてる)さん(86)は、この式典の「平和への誓い」の中で
「戦後日本は再び戦争はしない、武器は持たないと、世界に公約した「憲法」が制定されました。
しかし、今集団的自衛権の行使容認を押しつけ、憲法改正を押し進め、戦時中の時代に逆戻りしようとしています。
今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません。」
と述べました。
私は広島以上に長崎が肌に合い、何度も長崎に行き、被爆者の方々のお話を伺いました。
谷口さんにはじめてお会いしたとき、お名刺を頂いたのですが、そこにはカラーで、焼け爛れた背中の皮膚の治療を受ける稜曄少年の姿が印刷されており、思わず息を呑んだことを覚えています。
また、谷口さんは、わざわざ上半身の服を脱いで、ケロイドの痕を見せてくださいました。
谷口さんは、まさに体を張って、原爆被害の悲惨さと核兵器廃絶の必要性を生涯訴えてきた方です。
谷口さんは着ていた服がなくなり、背中一面に大やけどを負いました。そのため、3年7カ月の入院生活のうち1年9カ月はうつぶせの状態で生死の境をさまよったのです。
床ずれになり、今も胸がえぐられた状態で、肺活量も健康な人の半分程度しかないそうです。
このケロイド部分は皮膚呼吸ができず、これを毎日削らないといけないとお聞きしました。
そんな谷口さんの「平和への誓い」全文をここにご紹介したいと思います。
谷口さんにとっても「平和の誓い」を述べるのは、1974年以来41年ぶり2回目のことだったそうです。
さぞかし、戦争法案に対する危機感がおありだったのだと拝察します。
心してお聞きしたいと思います。
では、どうぞ。
70年前のこの日、この上空に投下されたアメリカの原爆によって、一瞬にして7万余の人々が殺されました。
真っ黒く焼け焦げた死体。倒壊した建物の下から助けを求める声。肉はちぎれ、ぶらさがり、腸が露出している人。かぼちゃのように膨れあがった顔。眼が飛び出している人。水を求め浦上川で命絶えた人々の群れ。
この浦上の地は、一晩中火の海でした。地獄でした。
地獄はその後も続きました。火傷(やけど)や怪我(けが)もなかった人々が、肉親を捜して爆心地をさまよった人々が、救援・救護に駆け付けた人々が、突然体中に紫斑が出、血を吐きながら、死んでいきました。
70年前のこの日、私は16才。郵便配達をしていました。
爆心地から1・8kmの住吉町を自転車で走っていた時でした。突然、背後から虹のような光が目に映り、強烈な爆風で吹き飛ばされ道路に叩(たた)きつけられました。
しばらくして起き上がってみると、私の左手は肩から手の先までボロ布を下げたように、皮膚が垂れ下がっていました。背中に手を当てると着ていた物は何もなくヌルヌルと焼けただれた皮膚がべっとり付いてきました。不思議なことに、傷からは一滴の血も出ず、痛みも全く感じませんでした。
それから2晩山の中で過ごし、3日目の朝やっと救助されました。3年7か月の病院生活、その内の1年9か月は背中一面大火傷のため、うつ伏(ぶ)せのままで死の淵(ふち)をさまよいました。
そのため私の胸は床擦れで骨まで腐りました。今でも胸は深くえぐり取ったようになり、肋骨(ろっこつ)の間から心臓の動いているのが見えます。肺活量は人の半分近くだと言われています。
かろうじて生き残った者も、暮らしと健康を破壊され、病気との闘い、国の援護のないまま、12年間放置されました。アメリカのビキニ水爆実験の被害によって高まった原水爆禁止運動によって励まされた私たち被爆者は、1956年に被爆者の組織を立ち上げることができたのです。
あの日、死体の山に入らなかった私は、被爆者の運動の中で生きてくることができました。
戦後日本は再び戦争はしない、武器は持たないと、世界に公約した「憲法」が制定されました。
しかし、今集団的自衛権の行使容認を押しつけ、憲法改正を押し進め、戦時中の時代に逆戻りしようとしています。
今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません。
核兵器は残虐で人道に反する兵器です。廃絶すべきだということが、世界の圧倒的な声になっています。
私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ、戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続けることを、平和を願うすべての皆さんの前で心から誓います。
平成27年8月9日
被爆者代表 谷口稜曄(すみてる)
関連記事
山口仙二さん逝く
慰霊の日に、自分の国の首相に「帰れ!」と叫ばずにはいられなかった沖縄の人は本当に悲しかったと思うんだ
もっともっとお元気でいていただきたいです。
よろしかったら大変お手数とは存じますが、上下ともクリックしてくださると大変うれしいです!
原爆被害の生き証人として語り続ける 平和への誓い全文
2015年8月9日11時48分 朝日新聞
70年前のこの日、この上空に投下されたアメリカの原爆によって、一瞬にして7万余の人々が殺されました。真っ黒く焼け焦げた死体。倒壊した建物の下から助けを求める声。肉はちぎれ、ぶらさがり、腸が露出している人。かぼちゃのように膨れあがった顔。眼が飛び出している人。水を求め浦上川で命絶えた人々の群れ。この浦上の地は、一晩中火の海でした。地獄でした。
地獄はその後も続きました。火傷(やけど)や怪我(けが)もなかった人々が、肉親を捜して爆心地をさまよった人々が、救援・救護に駆け付けた人々が、突然体中に紫斑が出、血を吐きながら、死んでいきました。
70年前のこの日、私は16才。郵便配達をしていました。爆心地から1・8kmの住吉町を自転車で走っていた時でした。突然、背後から虹のような光が目に映り、強烈な爆風で吹き飛ばされ道路に叩(たた)きつけられました。
しばらくして起き上がってみると、私の左手は肩から手の先までボロ布を下げたように、皮膚が垂れ下がっていました。背中に手を当てると着ていた物は何もなくヌルヌルと焼けただれた皮膚がべっとり付いてきました。不思議なことに、傷からは一滴の血も出ず、痛みも全く感じませんでした。
それから2晩山の中で過ごし、3日目の朝やっと救助されました。3年7か月の病院生活、その内の1年9か月は背中一面大火傷のため、うつ伏(ぶ)せのままで死の淵(ふち)をさまよいました。
そのため私の胸は床擦れで骨まで腐りました。今でも胸は深くえぐり取ったようになり、肋骨(ろっこつ)の間から心臓の動いているのが見えます。肺活量は人の半分近くだと言われています。
かろうじて生き残った者も、暮らしと健康を破壊され、病気との闘い、国の援護のないまま、12年間放置されました。アメリカのビキニ水爆実験の被害によって高まった原水爆禁止運動によって励まされた私たち被爆者は、1956年に被爆者の組織を立ち上げることができたのです。あの日、死体の山に入らなかった私は、被爆者の運動の中で生きてくることができました。
戦後日本は再び戦争はしない、武器は持たないと、世界に公約した「憲法」が制定されました。しかし、今集団的自衛権の行使容認を押しつけ、憲法改正を押し進め、戦時中の時代に逆戻りしようとしています。今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません。
核兵器は残虐で人道に反する兵器です。廃絶すべきだということが、世界の圧倒的な声になっています。
私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ、戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続けることを、平和を願うすべての皆さんの前で心から誓います。
平成27年8月9日
被爆者代表 谷口稜曄(すみてる)
安保法案「許せない」=「平和への誓い」谷口さん―長崎平和祈念式典[時事]
谷口さんは当時16歳で、郵便配達の途中、爆心地から1.8キロの長崎市住吉町にいた。背後で虹のような光があり、強烈な爆風で吹き飛ばされて道路にたたき付けられた。しばらくして起き上がると、左手は肩から手の先までボロ布を下げたように、皮膚が垂れ下がっていた。
着ていた服がなくなり、背中一面に大やけどを負った。そのため、3年7カ月の入院生活のうち1年9カ月はうつぶせの状態で生死の境をさまよった。床ずれになり、今も胸がえぐられた状態で、肺活量も健康な人の半分程度しかない。
戦後は、核兵器廃絶と被爆者援護を求める運動を引っ張った。今年4月には、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に先立ち、米国で核兵器廃絶を訴えた。谷口さんは「世界の国々で核兵器廃絶の運動は高まっている」と指摘する。
近年は体調を崩しがちで、今年7月には一時入院もした。しかし、2回目となる「平和への誓い」は、いままでの被爆者運動の「集大成」という覚悟で引き受けた。
国会で審議されている安全保障関連法案について、「被爆者をはじめ平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもの」と批判する。「戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の1人として、その実相を世界中に語り続ける」と誓った。
[時事通信社]
2015.8.9 12:32 産経新聞
長崎も被爆から70年 平和宣言で安保法案、慎重審議求める
原爆犠牲者を慰霊する平和祈念式典で、平和宣言を読み上げる長崎市の田上富久市長=9日午前、長崎市の平和公園
長崎は9日、被爆から70年の原爆の日を迎え、長崎市松山町の平和公園で、市主催の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が営まれた。田上富久市長は平和宣言で、安全保障関連法案に言及し、「憲法の平和の理念が、今揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっている。政府と国会に慎重で真摯な審議を求める」と述べた。6日の広島市の平和宣言は言及せず、両市で違いが出た。
宣言で田上市長は、長崎、広島の被爆だけでなく、東京など多くの街を破壊した空襲や沖縄戦、アジアの人々を苦しめた悲惨な戦争の記憶を継承するよう呼び掛けた。
核拡散防止条約(NPT)再検討会議が5月、最終文書案を採択できなかった点を挙げ、NPT加盟国に核兵器禁止条約など法的枠組みを議論する努力を要請。オバマ米大統領ら各国首脳には被爆地訪問を求めた。
政府には核抑止力に頼らない安全保障の検討や、国が定めた「被爆地域」の外で原爆に遭い、被爆者援護法が適用されない人の救済のため被爆地域拡大も求めた。
東京電力福島第1原発事故の影響で苦しむ福島に5年連続で言及し、支援を表明した。
被爆者代表の谷口稜曄さん(86)は「平和への誓い」で「戦争につながる安保法案は核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆す。許すことができない」と政府を批判した。
安倍晋三首相はあいさつで、6日の広島の式典では触れなかった「非核三原則堅持」を明言。「核軍縮の取り組みを主導していく決意を新たにした」と述べた。
谷口稜曄さん「平和への誓い」意気込み
長崎原爆の日(9日)の平和祈念式典で被爆者代表として「平和への誓い」を述べる長崎原爆被災者協議会長の谷口稜曄すみてるさん(86)が4日、長崎市で記者会見した。谷口さんは「運動の集大成として、被爆者だけでなく、全世界の人類のためにやり遂げたい」と意気込みを語った。
谷口さんが平和への誓いを述べるのは、1974年以来2回目。会見では、「被爆者の実態を知らない人たちが増えてきた。体験していない海外の人まで、被爆の事実を知っていただきたい。生かされている限り、亡くなった人たちの思いも込めて成し遂げたい」と力を込めた。
平和への誓いでは、国会で審議中の安全保障関連法案に反対する姿勢も表明するつもりで、「日本は一貫して核兵器廃絶、再び戦争をしないという姿勢を維持してきた。今後も維持していくことを世界の人たちに伝えていく」と話した。
毎日新聞 2015年08月09日 10時42分(最終更新 08月09日 12時54分)
長崎は9日、米軍が原爆を投下してから70年を迎えた。長崎市の平和公園で平和祈念式典が開かれ、田上富久市長は平和宣言で、安全保障関連法案について「70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、今揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっている」とし、日本政府と国会に「慎重で真摯(しんし)な審議」を求めた。一方、安倍晋三首相はあいさつで、広島の式典で触れなかった非核三原則を「堅持する」とし「『核兵器のない世界』の実現に向けて、国際社会の核軍縮の取り組みを主導していく」と述べた。安保法案には触れなかった。
式典は午前10時35分に始まり、安倍首相ら約6700人(速報)が出席。過去最多の75カ国の代表も出席した。米国からはガテマラー国務次官(軍備管理・国際安全保障担当)が政府高官として初参列した。
田上市長は、平和宣言で「日本国憲法における平和の理念は、つらく厳しい経験と戦争の反省の中から生まれ、長崎にとっても、日本にとっても、永久に変えてはならない原点」と強調。被爆体験だけでなく、空襲や沖縄戦、アジアの人々を苦しめた戦争の記憶を忘れず、語り継ぐよう訴えた。オバマ米大統領ら各国首脳に被爆地訪問を呼びかけ、日本政府には核抑止力に頼らない安全保障の検討や被爆者援護の充実、被爆者健康手帳が取得できる被爆地域の拡大を求めた。
また、被爆者代表の谷口稜曄(すみてる)さん(86)は平和への誓いで「今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者をはじめ平和を願う多くの人が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆すもので、許すことはできない」と述べた。
式典では、この1年間で死亡が確認された原爆死没者3373人の名前が書かれた原爆死没者名簿4冊が新たに奉納された。奉納された死没者総数は16万8767人になった。【樋口岳大】
よろしかったら大変お手数とは存じますが、上下ともクリックしてくださると大変うれしいです!
不偏不党の状況認識が出来るわけでもない
だが、彼らを論破するのは情緒が邪魔をするし、仮に論破したら人でなしと詰られる
良く出来たアジテートです