ブログネタ探しにニュース検索をしていたら、往年のアイドル、郷ひろみさんと共に新御三家と言われた野口五郎さんから西城秀樹さんへの手紙と言う、TOKYO FMの記事を偶然発見しました。
若い世代には、ちびまる子ちゃんがヒデキの大ファンだったということでおなじみ?
そのヒデキが2度の脳梗塞の発作を経て還暦となり、しかしステージにカムバックして野口さんも応援してきたという歴史を踏まえると、さらに味わい深いかと思います。
レイも感激!ということで(恥)、では、どうぞ。
野口五郎から西城秀樹への手紙「激動の時代を生き抜いてきた戦友へ」
2015.11.01 日曜日
「おまえの凄さ、僕にはわかるよ。」
僕、野口五郎は、西城秀樹の還暦パーティで、こう言った。
「ヒデキ、おまえを越えるやつは誰もいないよ!」
ヒデキに憧れてアーティストになったひとはたくさんいる。
でもやっぱり誰も彼を越えられない。
圧倒的な歌唱力、表現力。
何より僕には自負がある。
「おまえの凄さ、僕にはわかるよ」。
ずっと一緒に戦ってきたから。
40年以上走り続けてきたから。
もしも、タイムマシンがあって、ヒデキと過ごしたあの頃に、もう一度戻るとしたら、いったいいつがいいか……。
そう、あれは地方公演のときだった。
ホテルの別々の部屋で休む。
鍵はマネージャーに渡し、外出など許されなかった。
ファンのひとたちでパニックになることがわかっていたから。
新幹線、飛行機、ホテル。
特別扱いされていたのは、ただ単に、ファンがあふれ失神者が続出し、まわりに迷惑がかかるから、それだけの理由だった。
深夜、チャルメラの音が聴こえた。
夜鳴きそば。
無性にラーメンが食べたくなった。
「おい、ヒデキ、ラーメン、食べにいかないか?」
彼の部屋に電話した。
2人でホテルの窓から出る。
とんでもない高さ。一歩間違えば転落死。
でもそんな恐怖は何でもなかった。
深い、何処までも深い孤独に陥る恐怖に比べれば、気にならなかった。
屋台のラーメン屋さん。
並んで腰掛けた。
「うまいな、ヒデキ」
「うまいね、ゴロー」
会話はそれだけだった。
そう、過去に戻ってもう一度体験してみたい時間は、あの屋台でのひとときだ。
2人で並んでラーメンをすすったあのとき、少なくとも僕は救われた。
ひとりでは、なかった。
「オレ、許せないんだ!」
僕、野口五郎のデビューは、1971年。
15歳だった。
すぐ上には、錦野旦さん、和田アキ子さんなどの団塊世代、いわゆるスターと呼ばれる人たちがいた。
僕はそのスター世代のいちばん末っ子。
僕がデビューした翌年に、郷ひろみ、西城秀樹がデビューした。
他に森昌子さん、桜田淳子さん、山口百恵さんらが出てきて、アイドルというジャンルを確立した。
僕はいわば、そんなアイドル世代の長男でもあった。
今でも、上の世代のひとたちには可愛がってもらえる。
そして下の世代のひとたちのまとめ役だったこともあり、慕ってもらえている。
ある意味、オンリーワンの立場だった。
そんな中、同じ年代のひろみがデビューしたときはうれしくて、自ら彼のブロマイドを配り、
別に親切とか優しいとかではない。
ただ、同年代がデビューしてくれたことがうれしかった。
ヒデキもそうだった。
いろんな現場で一緒になると、まわりが思うようなライバル関係ではなく、同じ年代のやつがいる安心感、喜びで胸が高鳴った。
新御三家と呼ばれた僕たち。
3人でする笑い話がある。
ヒデキとひろみが売れてきたある日、ヒデキから
「ひろみは、オレより数ヵ月後輩だから、最初は、ヒデキさん荷物持ちますって感じだったんだけど、しばらく経つと、おいヒデキって呼び捨てなんだよ、それがオレ、許せないんだ!」
3人で会うと、今でもこの話で大笑いする。
僕たちにしかわからない、熱狂があった。
僕たちにしか理解できない、孤独があった。
僕、野口五郎は、「甘い生活」という曲で、日本レコード大賞の歌唱賞をとると思っていた。
周りもそんな反応だった。
でも、実際にとったのは、西城秀樹だった。
彼は歌唱賞が欲しかった。
だから手放しで喜べばいいのに、どこか僕に遠慮した。
先にとってしまってごめんという気持ちが見えた。
ヒデキは、そういう男だ。
不器用で表現ベタ。
でも愛にあふれている。優しい。
思いやる気持ちを誰よりももっている。
だから、1976年、第18回日本レコード大賞の歌唱賞を、2人でもらったとき、抱き合った。
僕たちには、ただ、激動の時代を生き抜いてきた戦友としての熱い思いしかなかった。
あの時代を共有できたものにしかわからない孤独があった。
高ぶる気持ちやさみしさがあった。
2015年4月13日。
病気の苦難を乗り越え、戦っているヒデキの還暦のパーティに呼ばれた。
僕はバースデーケーキを運び、彼と抱き合った。
そのときの抱擁と、あのレコード大賞での抱擁は、なんら変わることがない。
ヒデキ、わかってるだろ?
何も変わらないよ、オレたちは、何も変わらない。
ただ一緒に走ってきた道だけが、そこにある。
~西城秀樹さんへ~
思い返せば、生まれて初めて君の名前に「さん」をつけました。
言った僕が驚いてます。
1年先輩の僕がっていうのも、もう、今となっては、何の意味もないことになりまして、今考えてみると、同じ世代を一緒に駆け抜けて来たなっていう、そんな気持ちです。
最近になって、ああ、秀樹っていい曲いっぱい歌ってたなあって思うし、かっこ良かったなあ、とも思うし……。
なんか、僕達って、世間でライバルって言われた時期があって、でもお互いにはみんな、そんなライバルだなんて思ってなくて、時代を駆け抜けてきたような気がします。
でも、今、考えてみると、意識してたんだろうね、どっかでね、お互いね。
でもここまで頑張ってきたんだから、どこまで行けるかどうか、2人で一緒に頑張って、この歌の世界、アーティストの世界を全うしましょうよ。
最後の最後まで……何が最後なのかわかんないけど、切磋琢磨しましょ。
僕が入院した時に、君が見舞いに来てくれたね。
あの時、ドアを開けた瞬間に僕に、君はハワイ帰りだったのかな、真っ黒に日焼けした肌にTシャツで、いかにも健康的な顔して僕に「ゴロー、元気?」
僕は元気じゃなかったから入院してたんだよ。
ま、いつまでも仲良くしましょ。以上、野口五郎でした。
[野口五郎]
1956年2月23日生まれ、岐阜県美濃市出身。
小学生の頃より、テレビ番組のちびっこのど自慢などで優勝を重ね、15歳でデビュー。
後にデビューした郷ひろみ、西城秀樹とは“新御三家”と呼ばれるようになり、一世を風靡する。
「青いリンゴ」「オレンジの雨」「甘い生活」「私鉄沿線」など数々のヒット曲を世に送りながら、「カックラキン大放送」など、バラエティ番組ではコミカルな才能を発揮。
一方、ギタリストとしての評価も非常に高く、ラリー・カールトンやデヴィッド・サンボーンなどのジャズ・フュージョン系のミュージシャンとも共演している。
デビュー45周年となる今年、作詞・秋元康、作曲・筒美京平の「再会タイムマシン」、作詞・作曲・つんく♂の「Rainy~会えない週末」の両A面シングルをリリース。
人生を変えた人との「絆ストーリー」を紹介するラジオ番組「ゆうちょ LETTER for LINKS」はTOKYO FMをキーステーションに、JFN38局で毎週日曜15:00~15:30放送中。11月1日の放送は歌手・シンガーソングライターの生沢佑一さんです。
<番組概要>
番組名:「ゆうちょLETTER for LINKS」
放送エリア:TOKYO FMをはじめとする、JFN全国38局ネット
放送日時 :毎週日曜15:00~15:30
ナビゲーター:羽田美智子
番組Webサイト:http://www.tfm.co.jp/links/
<西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (1)何よりも家族
2015年10月7日 東京新聞
「いただきます」。僕が手を合わせると「いただきまーす」と、妻と三人の子どもが声をそろえる。食事のとき、ずっと続けているわが家の習慣です。
病気を患った僕のため、妻は肉や野菜、魚と一週間の中でバランスを考えた食事を出してくれます。食事はまず、おかずを食べて、最後にご飯をいただく。ご飯は一膳より少ないぐらい。今の僕はそれでおなかがいっぱいです。
四十六歳で結婚し、長女は十三歳で中学生になりました。長男と次男は小学生です。
朝食後は、登校する子どもたちを「いってらっしゃい!」と送り出します。家を空けることも多いですが、朝昼晩と、できる限り一緒に食べるようにしています。やはり、家族みんなで食べるのがいいですね。
二度の大病を経験してもステージに戻ることができたのは、何よりも家族の支えがあったから。妻は、一貫して何も言わずに尽くしてくれます。家族で映画に行くと「パパ、気を付けて」と階段で支えるのは長女の役目。体が思うように動かなかったときは、長男や次男がお風呂で背中を流してくれたこともあります。病気を抱えた父親がいると、自然と子どもは成長するんですね。
僕ががんばっている後ろ姿を子どもに見せれば、感じるものがあるだろう。そういう思いも、発症後に悲観的だった僕が前向きになれた原動力でした。 (歌手)
<さいじょう・ひでき> 1955年、広島県生まれ。72年にデビューし、トップアイドルに。「傷だらけのローラ」「ヤングマン(YMCA)」などのヒット曲を送り出した。2003年と11年の2回、脳梗塞を発症したが、ステージに復帰した。
<西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (2)新たなスタート
2015年10月21日 東京新聞
今年もソロコンサートを無事終えることができました。横浜を皮切りに大阪、東京と三会場で開き、いずれも多くの方が足を運んでくださって「ヒデキ! カンゲキ!!」です。
最近は、コンサートで若い人の姿も見るようになりました。僕と同年代の女性ファンが、娘や孫を連れてくることが多いようです。男性も増えてきました。新しいファンに聴いてもらうのはうれしいものですね。
デビュー以来、毎年欠かさずにコンサートを開いています。二度目の脳梗塞を発症した時も、十カ月後には復帰コンサートを開くことができました。当時はまだ体調が万全ではなく、一人一人に僕の心を届けたいという思いから「心響(こどう)」というタイトルを考えました。
翌年以降、同じタイトルのコンサートを続けていて、早いもので四年目です。還暦でもある今年は「新たなスタートにしよう」という思いもあり、四月に発売したアルバム「心響 KODOU」の曲を中心に歌うことにしました。還暦を迎えて「何事もシンプルがいい」という心境から、歴代のヒット曲をシンプルにアレンジしてあり、ファンも新鮮だったようです。
ステージでは集中力を切らさないためにも体力が必要です。毎回「体力がもつかな」と、不安があるのが正直なところ。乗り切るために欠かせないのが、毎朝の散歩をはじめとするリハビリです。僕のコンサートを待っている人がいるからこそ、地道なリハビリを続けられます。
よく「歌を聴いて力が出ました」という声がファンから届きますが、コンサートでパワーをもらっているのは僕の方。これからも健康の維持には気を付けていきたいですね。(歌手)
「ブルー・スカイ・ブルー」が特に好きです。
今は亡き(?)アイドル時代の淳子さんは「はじめての出来事」が良いですね。
篠山記信氏も長いなあ(笑)。
皆さん、頑張ってらして励まされます。
彼が心を許せる唯一の親友とも言えるのが秀樹さんだったと思っていました。
アイドルの孤独っていうのは、なってみないとわからないのでしょう。
秀樹さん、早すぎるよ、ゴローちゃんおいてかないでよ。でも、連れてかないでよ。
桜田淳子さんが宗教に走ったのも、あまりにも早く芸能界に入って、それ以外の世界を知らずにいたからかも知れませんね。
改めて友達って大事だなと思いました。
私たちも受け止められない。辛い現実です。
秀樹さんはずっと五郎さんのそばにいました。
歌謡大賞で五郎さんが賞を取ってがっちり握手
抱き合ったのをいつまでも忘れずにいましょう。
秀樹、五郎を残して何故?神様に選ばれた?
私は大阪球場跡から静かに見送ります。
これからも五郎とひろみを見守って下さい。
辛くて辛くて涙が止まらない一週間です。
天国でも思いっきり歌ってね。
今改めて聞いてみると、五郎だけじゃなく、秀樹もひろみも声がいいし、歌が上手いですね。
3人とも晩婚*で随分歳下の女性と結婚し、子どもが小さいので、秀樹はさぞ心残りだったでしょう。だから心臓が止まり、意識が戻らない状態でもしばらく生きていたのだと思う。家族にお別れの心の準備をさせたんだろうな・・・安らかに。
(*ひろみのみバツ2、二谷友里恵+娘2人→ずっと歳下の一般人、子どもなし→ずっと歳下の一般人+子ども1人か2人。五郎は三井ゆりと結婚、子ども3人?)
ちなみにわたしがちょっと惹かれたのは、ショーケンこと萩原健一です。
あの危険な、破滅的な雰囲気に胸騒ぎ ww 当時小学校低学年だったと思う。おませ〜 (^_-)
そして後年、やっぱりわたしの見立てどおり、ショーケンはだめんずだと判明したのである。 すごいぞ小学生のわたしの直感!!